縄文弥生修学旅行

紅あずま

 

 大嶋大は一風変わった人間である。

 第一に、大嶋大は「大嶋大」でしかない。例えば、日本の高校で教員が生徒に呼びかける時は、同姓の人間がいない限り名字プラスさんで呼ぶことが一般的だろう。だが、大嶋大は違う。彼と相対した人間――教師だろうが同級生だろうが出会った(マッチングした)おじさんだろうが――は大嶋大のことを「大嶋大」としか呼べなくなってしまうのだ。

 それが何故なのかは誰にもわからない。大嶋大の周囲にフルネームで呼び捨てにされている生徒は他にいない。だが、大嶋大は最早「大嶋大」という一つの概念と化しているのだ。日々教室では「おはよう、大嶋大」「じゃあ、問一を鈴木、問二を大嶋大、前に出て書きなさい」といった会話が繰り広げられている。

 第二に、大嶋大の自称は「拙者」である。彼は断じて近世の人間ではない。大嶋大は、近代――それもハイテク技術が横溢する二一世紀だ――を生きる高校二年生だ。スマートフォンを駆使するデジタルネイティブであるし、プログラミングだってお手のものだ。アプリで謎のおじさん達との出会い(マッチング)を満喫しさえする。そんな典型的な現代の若者である大嶋大が「拙者は」や「でござるよ」と至極当然のような顔をして吐かすと、彼との関係が希薄な人間は大抵困惑する。

 第三に、大嶋大は滅法目立つ。大嶋大は綺麗な青髪の持ち主だ。勿論、彼の通う高校で染髪はご法度である。だが、大嶋大の前では校則など風の前の塵に等しい。生徒指導担当の教員に「黒染めしろ」と校内中を追いかけ回される度に、「拙者のブルーヘアは地毛でござるよ」と嘘八百を言いながら走り回っている。

 しかし、真夏の海のような色の髪の毛よりも大嶋大を大嶋大たらしめているのは、その顔貌である。彼は、道行く誰もが思わず振り返ってしまうような、究極の美青年なのだ。きっちりと整った平行眉。ぱっちりとした二重の眼。スッと真っ直ぐな鼻梁。優しい微笑みを湛える口元。つまり、何処を切り取っても一二〇点満点としか言いようのない完璧な顔なのだ。「大嶋大が通った後には一陣の爽やかな風が吹き抜ける」という伝説が誕生したのも宜なるかなである。

 第四に、大嶋大は多趣味である。彼は幼少期から今に至るまで、華道、茶道、剣道、陶芸を習い続けている。そして、所属している部活は、部員僅か二名の囲碁将棋部。こう並べ立ててみると純和風な人間のように思われるが、大嶋大は日本という狭い枠に囚われるような人間ではない。世界各地の民族音楽や民族舞踊にも造詣が深いのだ。中学生の時にはボリウッド映画に出演し、主演俳優の真横で踊るという栄光を掴み取りもした。

 そして、第五に、大嶋大の人間関係は不可解である。非凡な彼が親友として選んだのは、極々普通の高校生である芽泰奏助だったのだ。

 奏助は大嶋大のように突飛な人間ではない。自称は「俺」だし、きっちりと校則を守ってもいる。ルックスだって十人並みだ。世間一般の人に「男子高校生を思い浮かべてください」と言った時に真っ先に連想される典型的な男子高校生像そのものの、平均的な見た目をしている。周囲の人間からは「芽泰」か「奏助」と気軽に呼ばれているし、あのインドの大スターとにこやかに笑みを交わしながらダンスをするシーンが全世界の映画館で上映されたことなんて勿論ない。

 けれども、たまたま囲碁将棋部に入部してしまったがために――囲碁将棋部が、奏助と大嶋大しか部員がいない斜陽部活であったがために――平々凡々な奏助の高校生活は、異色の男子高校生・大嶋大によって侵略されることになってしまったのである。

 一年生の文化祭では、「校長先生がどのルートで文化祭を巡り、どの模擬店の商品を購入するのか」という囲碁や将棋とは全く関係のない賭博を、囲碁将棋部の裏の催しとして行った。例年は囲碁将棋部の展示を訪れる人など滅多におらず、常に閑古鳥が鳴く有様だったようだ。だが、大嶋大の暗躍――食堂でのサブリミナル宣伝や全校生徒へのダイレクトハンド――により全校生徒の九五パーセントが参加した大規模な闇賭博となった。一口三〇〇円というお手頃プライスだったが、塵も積もればなんとやらだ。生徒達は一攫千金のチャンスを巡り、校長を思い通りに動かそうとあれやこれやの手を尽くした。結果として、鋼の心を持った校長は、生徒達の直接的・間接的な干渉を跳ね除け、自由意志に基づいて文化祭を満喫していた。そのため、趣味である校長ウォッチングが功を奏した奏助が見事予想を的中させ、賭け金を総取りしてガッポガポに儲けたのだった。奏助は「拙者は奏助が勝つと思うでござるよ」と言っていた大嶋大と、ちょっぴり贅沢な文化祭の打ち上げをしたのだった。

 この「文化祭闇賭博事件」も、数多ある奏助と大嶋大の武勇伝の中の一例に過ぎない。「体育祭で第五の組出現事件」や「合唱祭オペラ化事件」「食堂ハロウィーン反乱事件」「裏の社会科見学事件」……等々、二人のエピソードには枚挙にいとまがない。毎度毎度巻き込まれる奏助としては堪ったものではないが、何だかんだ楽しんでしまっていることは否めない。大嶋大がいれば、退屈という単語は辞書から吹き飛んでいってしまう。そして、目まぐるしく月日は過ぎ去ってしまうのだった。

 そう。奏助と大嶋大も、はや高校二年生。この春休みが終われば――つまり、後僅か一二日で――二人は高校三年生になるのだ。年々ヒートアップする受験競争からは、奏助だって、あの大嶋大だって、逃れられない。明日から始まる修学旅行が終わってしまえば、いよいよ受験勉強に本腰を入れなければならないだろう。

 つまり、この二泊三日の京都修学旅行こそ、二人が高校生活で大暴れするラストチャンスなのだった。機を見るに敏な大嶋大が、この絶好の機会を逃す筈がない。

 修学旅行を翌日に控えた今日、春期補習からの帰り道でのこと。大嶋大は上機嫌で奏助にこう持ちかけてきたのだった。

「奏助、拙者と一緒にドキドキな修学旅行を楽しもうではないか!」

 

 

 葛城論理教授は一風変わった人間である。

 第一に、葛城教授は土器に目がない。彼の専門は考古学――特に縄文土器である。若かりし葛城教授は、日本史の授業で見た火焔型の縄文土器に一目惚れしてしまったという。以来縄文土器の魔力に取り憑かれた教授は、大学に入学して考古学を専攻、そしてそのまま研究者となったのだった。

 彼の縄文土器マニアっぷりは凄まじい。学生時代に陶芸サークルに入ってから陶芸を嗜むようになった葛城教授は、縄文土器を模した陶器を大量生産している。そして、近所の人や同僚、親戚や教え子に無料配布しているのだ。葛城家の食卓に並ぶ食器は全て葛城教授お手製の縄文土器風陶器だと言うから、畏れ入る。

 第二に、葛城教授は論理(ロジック)を偏愛している――否、葛城教授の生命は論理によって維持されている。彼は考古学一筋の学生生活を送り、論理学を齧ったこともない。だが、葛城教授は森羅万象全ての物事には論理が存在すると考え、常にこの世を突き動かす論理を求めて灰色の脳細胞を機動させているのだ。

 名は体を表すというが、葛城教授の人生は論理に彩られていると言っても過言ではない。葛城教授の幼馴染である彼の妻の伝によると、幼少期から研ぎ澄まされていたその論理的思考(ロジカルシンキング)は、葛城教授の身の回りで勃発した数々の難事件を解決に至らしめたそうだ。葛城夫人が葛城教授のプロポーズを承諾したのも、その論理的(ロジカル)なスマートさによるところが大きい、と夫人は惚気混じりに語った。

 第三に、葛城教授の論理至上主義は非常に急進的だ。彼は自分だけではなく、周囲の人間にも論理的であることを求める。誰かが不用意な発言をしてしまうと、「君には論理が見えていないのか?」と皮肉っぽい口調で言う。そして、どのような点が非論理的なのかを滔々と論うのだ。周囲の人間は、教授の論理談義(ロジックレクチャー)を聞き流す域に達するまでは、彼の前で迂闊なことを言わないよう口を噤んでいる。

 

 葛城教授の研究室に属する山邑華恋も、彼の論理至上主義を日々実感している。卒論執筆に際しても、散々「君の論文からは論理が見えてこない」と叱咤され、何遍も書き直しを余儀なくされた。そして、彼女は昨日も葛城教授の論理スイッチを押してしまったのだ。

(続きは『蒼鴉城』第48号でお楽しみください)