葉室邸事件

登蟷螂

 

 竜土軒は歩兵第一連隊と大通りを隔てて向かい合う西洋料理店である。葉室登一が店に姿を見せた時、磯田朝治の表情には意外の念が浮かんだ。会合自体は申し合わせてのことだから、意外に思うには及ばないが、葉室の口元は引き締まっていて、普段の皮肉なにやけ面はすっかりと鳴りを潜めている。磯田が意外に思ったのは、おそらくこの点であろう。

「よく来てくれた、時間通りだ」葉室にとっては自然な言葉だが、磯田は少し眉を顰める。磯田は山口の農家の生まれで、陸軍士官学校時代はたびたび、葉室の言葉の端々に滲む華族の出らしい傲慢さに突っかかっていたものだった。

「今しがた、九時になったところだ。さあ、飲もう。席に座って休め」磯田はグラスに葡萄酒をなみなみと注ぎ、テーブルの上にコツンと置く。

「ありがたい、何しろ酷い寒さだ。それに、気が滅入って仕方がない」向かいの席に腰を下ろすなり、葉室はグラスを掴んで一息に飲み干した。気が滅入る、とは嘘ではない。浮いた頬骨が顔に影を作り、明らかにやつれて見える。

「何も異状はないだろうな」とは、蹶起けっき騒ぎで免官を食らい、今なお憲兵の監視下にある磯田らしい警戒心である。

「大丈夫、鼠一匹出なかった」葉室は煙草を口にくわえ、燐寸マッチの火をその先に受ける。深く煙を吸い込み、一服。磯田を呼びつけたのが自分であることを忘れたように、くつろいだ態度。

「お前、宇都宮にいたろう」言葉の接ぎ穂を探すように磯田が言う。「どうして、東京に。休暇か?」

「第一連隊に転属だ。大方叔父上が気を利かせたんだろう」煙草の先から灰が落ちる。

「叔父上というと葉室大将か。今、君の家にいるんだったか」

「僕の家、とは言えないね。母と結婚したんだから、今じゃあそこは叔父上の家だ。いうなれば僕は客分だよ」

「客分はないだろう。母上と結婚なさったんだ。葉室大将は叔父でもあるが、今は君の父上だ」

 嘲笑のように口角を吊り上げて、葉室は灰皿に煙草を押し付ける。「ただの親戚でもないが、肉親あつかいはまっぴらだ」

「随分捨て鉢じゃないか。一体どうした」

「この世の営み一切が、つくづく厭になったものでね。わずらわしい、味気ない、すべてかいなしだ」煙草の二本目を取り出そうとして、切らしていたことに気付き、くしゃりと紙箱を握りつぶす。

 磯田は自分の煙草入れから一本取り出し、葉室に差し出す。「何があった。推察するに家のことだろうが、俺でよければ相談に乗ってやる」

 煙をふかした葉室は陰性の視線で磯田を見つめる。「蹶起の計画は、どうなっている?」

「どうにもなっちゃいないな。去年の夏に俺と村中が免官になってそれっきりだ。どうにも、今の陸軍の青年連中には気骨が足りん」とは、真っ赤な嘘。この時点で磯田は栗原や田中といった尉官級の同世代と打ち合わせを進めていたし、川島や真崎といった陸軍上層部への行脚を重ねているともっぱらの噂になっていた。

 あからさまな嘘に、葉室はいやいやと手を振って見せる。「下手に隠し立てしなくてもいい。別に間諜ってわけでもないんだ。計画は、どうなんだい。成功の目はあるのかね。高橋あたりに聞いてみたが、ありゃだめだ。大義を明らかにすれば、国体の光は自然に明徴になるだのなんだのと言って、計画について聞こうとしても、臣下の決めることではないの一点張りだ。君は、北や西田と近しいだろう、具体的な計画があるとにらんでいるんだがね」

「間諜ではないという言葉を鵜呑みにするほど、生憎こちらも素直ではない。信用できない人間の前で、うかうかと計画を口にはできんよ。もし、計画なるものがあったとして、の話だが」

「なるほど、それなら」葉室はちらりとあたりを見渡し、声を潜める。「俺が蹶起に加わると言ったらどうだ」

「なに?」ピクリと、磯田の頬がひきつる。「お前が? 蹶起に参加すると?」

「川島陸軍大臣や真崎、荒木の大将じゃあ、貴族連中を動かすには力不足だぜ。僕なら西園寺公にだって顔が利く」

 磯田はふん、と鼻を鳴らした。葉室の読みは正しく、磯田個人としては、元老西園寺公望を生かしておくことで蹶起後の政局に利用する魂胆ではあった。しかし、工作はうまく行かず、青年将校内部でも奸賊西園寺討滅すべしの声は頻りに高まっている。

「にわかには信じがたいな」磯田の答えは慎重だった。「俺たちは兵士であると同時に農民だ。けれど、お前は貴族だ。それがなぜ蹶起に加わろうとする」

「共感したんだよ、君たちの掲げる理想ってやつに」指に挟まれた煙草の火がゆらゆらと揺れる。「既存の特権階級によって陛下と臣民の心は隔たり、陛下を取り巻く奸臣によって国体は徳川時代へ遡りかねないほどに乱れている。日本国民の九割は貧苦にしなびて怒る元気すら持ち合わせていない。君側の奸は除かねばならない。実に立派な理念じゃないか」本心でないとは断言できない程度に真剣な口振りが、かえって貴族らしいあくどさを際立たせている。

「一度までなら許してやる」磯田の声は醒めていた。「もう一度聞こう。お前はなぜ、蹶起に参加する」

葉室は少しばかり傷ついたような表情を浮かべたが、「失礼。少々冗談が過ぎた」と二本目を灰皿に押し付ける。「君らの計画に、葉室蔵人を殺害の対象として加えてもらいたい。なに、叔父上は統制派だ。君らに敵対しているのだから、殺害する道理も立つ」

「葉室大将か」

「名古屋での訓示を聞いただろう。天皇機関説排撃、国体明徴とあまり騒ぎ立てることはよくない、との仰せだぜ。これが大将の地位にあるんだ、君らだって快いものじゃないだろう」

「俺たちの事情は俺たちで決める。お前が語るべきことは、お前の事情だ」

 そうかい、と葉室は嘲笑を浮かべる。「それなら、聞かせてやろう。今より語る事の顛末、心して聞いてくれ」

「言え。聞かずに置くものか」

「昨夜のことだ。北極星の西に見える、それ、あの星が、今も光っている、ちょうど同じ場所に来た時だった。こちらは従者と二人きり。すると、十時を打って……」

 ぼーん、ぼーんと重苦しく、店の大時計が鐘を打ち鳴らす。磯田はびくりと体を震わす。

「亡霊でも出たか」とは体の震えを誤魔化すための強がり。

 葉室はこくりと頷いて見せる。「亡くなった父、葉室登馬伯爵そのままの姿。そっくりどころか装いも同じ、貴族院へと向かう折の背広そのまま」

「それで、どうした。口を利いたのか」

「ああ。非道、無慙な殺人の恨みをはらしてくれ、と」

「殺人。お前の父上は血盟団員に鉄砲玉をぶち込まれて死んだと聞いた。あいつらはすでに檻の中だ。恨みをはらすにも方法はあるまい」

「父の死因につき言いふらされた故意の流言、日本中がそれに騙されて、誰一人疑うものはない。父に鉄砲玉をぶち込んだその射手が、現在我が家の長の地位を戴いているというのに」

「つまり、葉室大将が」

「畜生にも劣る人非人じゃないか。不義といおうか乱倫といおうか、生まれついた邪智奸佞、女を惑わす才能に長け、手練手管を弄して、操正しき兄の妻をたぶらかし、恥ずべき邪淫の床に誘った。手酷い裏切りじゃないか。僕の父親は実の弟の手にかかり、命ばかりか妻ともども奪い去られ、生きてある罪のさなかに身も心も穢れたまま、裁きの庭に追いやられたんだ。と、これはクリスチャンだった父の言い草だがね。そこで僕には復讐という使命が課せられた。今じゃ脳中に記されているのは亡霊となった父の言いつけばかりというわけさ」葡萄酒の瓶を乱暴に傾けて、グラスになみなみ。乱暴な手つきで一息にあおる。

「にわかには信じがたいな。到底、近代日本で起こりうる類のことではない」

「なに、貴族家で起きた事件だぜ。前近代でもおかしかないさ。もっとも、君らとの間に、大した違いがあるとも思えないけれど」

「どういうことだ」

「君らの首魁の北一輝先生は、朝日平吾の亡霊を見たんだろう。宋教仁の亡霊を見たんだろう。何も違わないさ。君らは僕の言うことを否定できるような立場にはない。関節が外れたこの世の中で、僕も、君らも、なんの因果かそれを直す役目を押し付けられちまった同士というわけだ」

ふん、と磯田は鼻を鳴らした。「いいだろう。もとより葉室大将は我々の殺害対象の内だ。上部工作は随分助かる。最終局面の交渉でも、役に立ってもらいたいな」

「交渉、というのはいいが、君らの蹶起の具体的な推移を、僕は知らないものでね。成功の目はあるんだろうね?」

「相当の計画腹案はある。我々の最終目標は、皇権の奪取奉還だ。政財閥に侵された政治大権を国民が奪取奉還することを維新と呼ぶ。そして、そのためには北先生の日本改造法案を徹底的に実現しなければならない」

「昭和維新、というわけだ」

「そのためには我々自身が政権を握らねばならない。現政権が邪魔となる」

「つまり、大臣連中はできる限りということか。岡田首相はもちろんとして、高橋蔵相、後藤内相あたりかね」

「加えて、重臣会議の出席者だ。後継の内閣が現状寄りの人物から選ばれてはかなわない」

「西園寺公の他に、協力が取り付けられそうな重臣は?」

「清浦元首相の秘書とは連絡を取っている。本庄侍従武官長や平沼枢密院副議長もおそらく、こちら側につく」

「内閣、重臣。その他には統制派かな」

「葉室大将はいうまでもない。林、南、小磯あたりは罷免でいいだろう。幕僚連中は逮捕か、見つけ次第といったところだ」

「財閥連中は?」

「三井、三菱は暗殺予定」

「後継首相は荒木さんかな。それとも真崎さん?」

「荒木さんは弁舌だけだ。担ぐなら真崎さんか、柳川さんが妥当だろう。そのあたりがケレンスキー内閣で、本物がその後に続く」

「しかし、それは天皇陛下の意志でなければならない。そのあたりはどうだい。宮中に切り込みでもするのかな」

「それは無理だ。捨石主義者たちの手前、詔を強制するわけにもいくまい。しかし、陛下は統制派に大層ご立腹なさっている」

「というと?」

「真崎さんを教育総監から更迭なさったことがあっただろう。あれは無論、統制派の横槍だ。統帥権を干犯されたことがご不満なのだと、山口が言っていた。蹶起の趣意書は川島さんに取り次がせる。こちらの意志が伝われば、陛下も認めてくださるはずだ」

「楽観的に過ぎる気もするな。側近の観念を注入された陛下が、素直に頷いてくれるかどうか」

「なに、理を尽くせばわかるだろう。明治以来、この国が立憲国であることは陛下自身がご存知のはずだ。天皇の独裁国ではないし、ましてや重臣連中の独裁などはもってのほか。近代的民主国家である以上、陛下は国民の声を聞かねばなるまい。陛下は国民の陛下でなければならない」

「君は随分な近代主義者だ」

「不満か」

「まさか。僕だって同じ思いだもの。僕の役割は西園寺公をはじめとした貴族たちへの上部工作。君らの仲間にはどう伝える?」

「加わることは伝えておこう。決行当日には俺の家に来てくれ」

「決行の日付は?」

「まだ早い。時機が来たら連絡を入れる。しかし、三月以降にはならない」

「第一師団の満州国派遣か」

「それまでには済まさねばならない」

「それじゃあ」と言って、葉室は鞄から一紙を取り出し、折り目を付けて引き裂いた。「互いに一筆したためよう。裏切ると思われたくはないし、思いたくもない」

 磯田は頷き、切り裂かれた片割れに鉛筆を走らせた。紙の上に覆いかぶさる姿勢をとったのは、周囲に対する用心のためだろう。葉室も同様の姿勢で鉛筆を走らせる。二人は小刀で指の先を傷つけ、血判を紙面に捺しつける。血判状は二人の間で取り交わされ、互いの懐の内に納まった。

「それじゃあ、来る日に備えて」財布から取り出した札一枚を置いて、葉室は立ち上がる。

「今夜のこと、けっして口外してくれるなよ」

 背に掛けられた磯田の言葉に、葉室は「神にかけて」と答える。背を向けたまま、店を出る。

「陛下は国民の陛下でなければならない」葉室は、磯田の言葉をつぶやく。「母は父の妻でなければならない」葉室は、自分の言葉をつぶやく。冬の澄んだ空気が袖から覗いた肌を鋭く刺す。

その冬は特に寒かった。

 

 

 うちの階段は、広いくせに傾斜が少しばかりきついから、よく人のよろめく階段だ、などと父は日頃冗談めかして語っていたものだが、今日よろめいたのは葉室陸軍大将だった。転んだ拍子に左手を妙な具合に捻ったものだから、父の狼狽ぶりは酷くて、女中のすみが呼ばれたが、葉室大将は「何を騒ぎ立てておるか、この程度のことで」と叱りつけた。大将は貴族の出身だから、もう少しおとなしくてもよいもののように思えるのだけど、長年過ごした軍隊の垢は地を隠すほどに染みついてしまっているらしい。

 その日の会談の出席者は、大将に加えて大将の奥様である葉室龍子夫人、父保呂安二という代わり映えのない面々だったが、私が普段の通りに速記係につこうとしたら、「いやいや、ふゑ子さんも加わりになって」と葉室大将夫人から声を掛けられた。

 長い付き合いに加えて政治的には同閥とはいえ、大将は大臣の地位も視野に収めた陸軍の枢要、対して父は権勢家に寄生してその日暮らしで政局をやり過ごす一子爵に過ぎず、ソファの隅で恐縮しきりに縮こまっている。父の態度を娘の私が真似しないわけにもいかない。いかにも緊張した面持ちに、場違いというように顔を伏せて、割り振られた役割につく。

「いやなに、大したことではないが」台詞の割に、葉室大将の表情は固い。「うちのセガレのことでしてね」

「はあ、セガレとおっしゃいますと登一君のことで?」とは父の上目遣い。常に伏目がちでいるものだから、後退したてらてらの額がどうにも目立ってしょうがない。

「おふゑさん」なれなれしい呼称は懐柔のためのものだろう。大将の奥様が私に視線を向ける。「登一とは、親しいのでしょう。何か、登一の妙なそぶりに気付いたことはありませんか?」

 なるほど、なるほど、親しいときたか。会談の仲間入りに合点がいく。しかし、親しかったと言えるのは登一さんが陸士の予科に入る以前のことで、それ以来は一年で片手ほどの付き合い。それとて、今年の初めに受け取った恋文を父の言いつけで突き返したきりで、交渉は絶えてしまっている。

「最近はお目にかかることもありませんから……」と声は震わせた方が外向きである。

「私の方から、よく言い聞かせておりますから」父はかばうように口を挟む。「登一君は、末は大将か、陸軍大臣にも上る人。立身出世を妨げるような真似はけっしてならないと」

「しかし、事情が変わりましてな」大将の言葉は期せずして父の言いつけの由来を明らかにしてくれたのだが、これは大方予想通り。「当家としては保呂家のお嬢さんに親しくしていただいて構わない、と。いや、責任だなんだと面倒なことになりさえしなければ、むしろ交渉を再開してほしい、というのが希望でしてな」

「はあ?」と父の語尾が上がる。

「実は登一が磯田朝治と接触したという情報がありましてな。知っとるでしょう、磯田朝治」

「免官となった将校ですか。不穏な動きをしているとは聞いておりますが」

「登一が何やらそうした思想に染まっているのではないかと、こちらではそれを危惧しておるわけですな。おまけに、登一が貴族連の集まりにしばしば顔を出しているという噂も聞きつけておりまして」

「家に帰ってくるのも遅く、近頃はどうやら捨て鉢な様子で。何か、そちらでご存知のことはないかと。ねえ、ふゑ子さん」急に奥様がこちらに矛先を向ける。「あなた、登一になんとおっしゃったの?」

 なんと、とは随分面の皮が厚い。恋文がどうという話も聞かない先にこの質問が出るあたり、父から事情はよく伝わっているらしい。

「お手紙はいただきましたけれど、身分違いですから、とお断りいたしましたわ。けれど、そんなことで……」

「いえ、恋ゆえの苦しみは、狂気に至るのに十分な理由」

 奥様の言葉に思わず吹き出してしまいそうになる。親心というものは、ここまで行きついてしまうらしい。

「失恋のために、皇道派の思想に走ったか」と葉室大将も同意するのだから、始末に負えない。

 失恋から思想へと至るようなお話はちょくちょく目にするけれど、私にはどうにも因果関係が逆のように思えて仕方がない。それを差っ引いても、登一さんが私に向けているものに恋などと名を付けていいものだろうか。実父譲りの好色というのが妥当なように思われる。

「これはまた、とんだことを……」と父がさらに縮こまるあたりから見て、どうやら登一さんの乱心は失恋というところに納まるらしい。涙の一つくらい、浮かべてやるのはわけもない。けれど厭だなア、という本音が抑えられるわけでもない。

「いや、まだ決まったわけでもない。それに、セガレがどの程度、皇道派と懇ろなのか、確かめなければなりませんからな。つまりは、密偵が必要なわけです。セガレの行状を、誰かが確かめねばならない。そこで、ですな。私としては汚名を返上してほしいわけです」

「あなた、汚名とはあんまりです」奥様が割って入るけれど、あからさまな予定調和。父に圧力をかける手練手管には、葉室伯爵を夫としていた頃から長けていた御仁だ。

「いやいや、これも偏に私の監督不行き届きでして。葉室様には恩が深いが、返せたものは仇ばかり。お役に立てるというのであれば、こちらも労を惜しみません」父にしても予定調和が骨髄まで染み込んでいる。

 口を挟めず俯く私も予定調和にならされている。自嘲は、こちらで制したつもりもないのに、喉元のあたりでとどまってくれる。

「そう言っていただけるとありがたい。なに、汚名を返上だのと大袈裟なことを口にしましたが、なんてことはない。ふゑ子さんをセガレと鉢合わせさせようという、簡単な算段でして。ふゑ子さんとよりを戻したら、あるいは口の滑りもよくなるかもしれません。あるいは狂気も元の鞘に」

 父が私にちらりと目をやる。気遣うような視線はありがたいが、せめて徹底してくれたら。

「ええ、ええ。お安い御用でございます。な、ふゑ子」

「はい、何もかも仰せのままに」気概のない父を心中で罵倒する。罵倒の言葉は心中のあちこちで乱反射する。

「いやはや、痛み入りますなあ」と葉室大将は上機嫌。

「ありがとうね、おふゑさん」奥様のやさしさは心からのもの。

 自分の顔は自分では見えない。見えなくて幸いだったと思う。自分が浮かべていた表情は、きっと見るに堪えないものだっただろう。

 葉室大将がくしゃみをする。飛んだ鼻汁がテーブルの上でネトネトと光を反射する。その時、私は自分の手の冷たさに気付いた。暖炉に視線をやると、火がほとんど消えかけていた。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)