猫は舟に乗って

入ヶ岳愁

 目頭が痛み、鼻の奥が痺れてしまうほど濃い潮風の、只中に僕は立っている。翡翠色の海と遠く霞むおかを眺めながら、束の間自分がフェリーに乗っていることも忘れていた。波の上にひとり、ぽつんと取り残されてしまったような気がする。さっき鳴った汽笛の残響が、長く、まだ尾を引いていた。

 何かの折に遠景で海を見ることはあっても、砕ける波音まで間近に聞いたのは、指折り数えて四年ぶりだ。フェリーに乗って瀬戸内海へ出たのは数えるまでもない、人生初めてのことだった。

 風はあるが、海が時化るほどではない。眼下の海面に白波が立つのは僕らの船が進んでいるせいで、特に喫水線の近くはあぶくが立つほどに海水が掻き回され、隆起し、網目模様を作り、ほどけ、渦を巻いて散っていく。その行方を飽きもせず眺めていた。

 フェリーの速度に目が慣れてくると、逆に海の方がフェリーと逆の方向へゆっくりと流れているように思えてくる。大河が下流へ向かって滑るように。あるいは潮の満ち引きや海流の関係で、本当に流れがあるのかもしれない。

 ガリガリと、固いものを削るような音が背後から聞こえた。待合室の古いスピーカーが目を覚ます音だ。潮風に当たり続けてすっかり声も嗄れてしまったスピーカーは、フェリーが間もなく定刻で経由地の島に停泊するという案内を伝えた。僕らの目的地はまだ二つ先だった。このフェリーは路線バスのように、密集するいくつかの島を点々と繋いでいる。

 船の舳先から大きな島影が流れてきて、波模様と空だけの視界を削りはじめた。あくびを一度。日光を浴び続けた髪がいよいよ熱を持ちはじめていたので、一度待合室へ戻ろうと振り返った先に新里しんざとの顔がある。

 驚いて後ずさった僕は、背中をフェリーの手すりにしたたか打った。固い音が背骨から頭に響いて、痛みに歯を食いしばる。

「危ないですね。落ちますよ海に。落ちても助けられませんから」

「いつからそこにいたの」

「ついさっきです。船内放送が流れた頃」

 知れたことをと言わんばかりの口調。新里自身に僕を驚かせる気がなかったのだとしたら、僕が相当呆けていたということだ。

「外に出るなら私にも声かけてくださいよ。待合室にいないから捜したじゃないですか」

「それは……新里こそ、席を立ったきり帰ってこなかっただろ」

「私は用あってのことです」

 新里はなぜか得意げにそう言って、

「ここで何見てたんですか」

 僕の隣に並んで手すりを握り、半分島に隠れた海を見回した。

「そりゃあ海とか、空とか遠くの島とか、色々」

「色々ですか。じゃあ海鳥はいましたか。カモメとか」

「海鳥……」

 辺りをぐるりと見回して、首を捻ってみせた。今は低空にそれらしい姿は見えない。沖には何羽か群れて飛んでいたような気もする。いや、確かに飛んでいた。茶色い羽毛をして、あれはカモメではなかっただろう。僕はカモメ以外の海鳥をろくに知らない。

「時々ぼんやりしてますよね、上原かんばらさんって」

 そうかもしれない。考えごとをしているだけだと言いたいけれど。

「戻りましょう。ここにいたら日射病になっちゃいますよ」

 海なら後でも見られますから、そう言って新里は待合室へ戻っていった。僕も彼女の後に続く。フェリーは少しずつ速度を落としはじめていた。

 待合室は左右の壁がガラス張りになっていて、ここからでも反対側の海が見えた。遠く、本当に遠くに霞むような本州の岸が見える。

「猫島、楽しみです」

 新里が小さくつぶやいた、それはただの独り言だったのかもしれないけれど、後ろを歩く僕もまた、頷いていた。

 

 猫島へ行きましょうと、新里が僕らを誘ったのが八月初めのことだった。喫茶店のテーブルで、読みかけの文庫本から顔を上げて新里は言った。一度行ってみたかったんです、猫島。僕はその「ネコジマ」が海に浮かぶ実際の島だとすら思わず、ぽかんとして彼女の横顔を見ていたことだろう。

 僕と新里の所属する読書サークルは、週に一回大学最寄りの喫茶店に集まって、本を読んだり感想を語り合ったりするというだけの、部室も何もない小さな集まりだ。所属するメンバーは一回生と二回生の合計四人。その日は前期試験終了直後ということもあり、テーブル席にはその四人全員が集まって静かに本を読んでいた。そこへ急に「猫島」だ。それもどうやらただの思いつきではなかった。新里は膝に本を置くと、プリントアウトしてきた十枚ほどの資料をテーブルに広げて、僕らにプレゼンを始めたのだ。

 猫島というのは正式な土地の名称ではない。全国に何箇所かある、野良猫が大変に繁殖して観光地化している島を外の人間がそう呼ぶらしい。僕らの通う大学から比較的近いところだと、瀬戸内海に浮かぶとある離島が猫島として有名だった。人口二百五十人、猫の数、推定三百匹以上。名実ともに猫が天下を取っている島だ。

 猫とふれあえる、海が見える、魚が美味しい。新里が挙げた猫島へ行く三つのメリット。彼女自身はこのプレゼンに賭けてきたところがあるのだろうが、僕含め他のメンバーはさして反対するでもなく、いいんじゃない、行こうかとゆるい賛成の声を上げた。みんな、長い夏休みをどこか持て余していたのだと思う。僕も毛のふかふかとした動物は嫌いじゃないし、瀬戸内海の離島というのはそれだけで魅力がある。こうして僕ら読書サークルの、設立以来初となる夏の合宿が決定した。

 

 待合室の固いベンチに座っていると、ポケットのスマホが震えた。サークルのLINEグループに通知が来ている。「ありがとうと手を合わせる少女」と「膝を突いて滝の涙を流す男」のスタンプが、メンバー二人から連続で送信されてきていた。

「こっちは『写真送ってくれてありがとう』、こっちは『俺も行きたかった~』ですね」

 隣に座る新里が、自分のスマホを指差しながら囁いた。

「写真送ったの?」

「はい、フェリーに乗ってすぐくらいに。見ませんでした?」

 通知を見返すと、たしかに数分前に新里から大量の写真が送られてきていた。駅のホームから特急の行先案内票を撮った一枚に始まり、半分空席になった四人掛けのシート、山地の緑しか写っていない車窓、昼に食べたえびめし二人前、これから乗るフェリーの全貌。

 そう。今日の合宿は僕と新里の二人しか参加できていない。他の二人はそれぞれ法事や夏風邪で、急に来られなくなってしまった。それが当日の朝になって分かったことでなければ、旅そのものが中止になっていたかもしれない。新里も残念そうにしていた。

 かくして真夏の洋上に僕ら二人きり、とは、もちろん語弊がある。なにせ今は夏休みの真っ盛り、離島航路を巡る中型フェリーには僕らの他にも、家族連れ含む二十人ほどの旅客が乗っている。彼らがそれぞれどの島を目指しているかは一見して分からないが、待合室で座っているとそこかしこから猫、猫と聞こえてくるので、大方みんな同じ島を目指している気がする。

 僕と新里の前に座る二人の乗客も、しきりに顔を寄せ合って猫の話題に花を咲かせていた。

 小学五、六年生くらいに見える女の子と、その付き添いらしきお爺さんが肩を並べている。女の子は紺色のキャップを、お爺さんは柔らかい素材で出来たクリーム色のハットを被り、そのハットの下には分厚い縁無しの眼鏡をかけていた。お爺さんは首に下げていたデジカメを構えて、一枚、女の子の写真を撮った。

「よう撮れた。見い、背景に真っ青な海や。……ラビ、まだ寝とるんか」

「さっき起きたよ。でも、まだちょっと眠そう」

 お爺さんの話し声は囁きにしてはよく響く。コントラバスのようなお腹に響く低音だ。一方の女の子の声は高く軽やかで、ヴァイオリンが想起される。

「向こうに着いてもケージの蓋、開けたらあかんからな。島の猫と混ざって、見分け付かんくなってまう。おじいちゃん、猫の顔の区別なんかできんで」

「大丈夫だって、首輪してるから」

「しとっても、や。遠目には分からんやないか」

「分かるよ。大体ラビと他の子の見分けくらい付くし。ねえ」

 女の子は俯いて、手元に抱えた何かを覗き込んだ。ちりんと鈴の音がする。どうやら島への旅行に家の猫を連れてきているらしい。でも、ラビ?

「こんにちは」

 そして、それは電光石火の早業だった。隣に座っていたはずの新里が立ち上がって身を乗り出し、前の二人に話しかけていたのだ。引き止める間もない、お爺さんと女の子はそろって新里の方へ振り返った。

「あ、すみません急に。お爺さんたち、猫島へ行かれるんですか」

 新里はにっこりと愛嬌たっぷりの笑顔を作った。お爺さんは振り返った時こそぎょっとした様子だったが、新里の顔を見るとすぐに相好を崩し、ずれた眼鏡を元の位置に戻した。

「ええ、まあそうです。孫とね。ちょっとした旅行のような」

「私もこれから島へ向かうところなんです。そこの人と」

 新里が僕を指差したので、二人の視線がこちらを向いた。上原です、と会釈だけ返す。遅れて新里も二人に名乗った。新しい里、美しい稲穂と書いて新里美穂みほ。僕はこの新里の名乗り口上を気に入っている。聞いただけで長閑な秋の農村が目に浮かぶから――もっとも新里は東京生まれで、根っからの都会っ子らしいが。

 僕と新里はお爺さんに招かれて、二人と同じ列のベンチへ座り直した。お爺さんは新里の話にすすんで付き合ってくれたが、女の子は口を閉じて俯いたままだ。

「合宿、そらええですね。猫の、部活なんですか」

「いえ、文芸のサークルです。私が猫好きなだけで。お二人は……」

嘉島かしまといいます。こっちは孫の千紘ちひろで、この通り、猫を好いとります」

 嘉島さんは隣の席を手振りで示した。そこに座る千紘ちゃんは僕らの視線に気づく様子もなく、膝に抱えた大きな鞄を覗き込んでいる。それは案の定、猫を連れていくためのケージだった。短いトンネルの左右を塞いだような形で、上から花柄の布カバーを被せられている。千紘ちゃんはそのカバーを少しだけめくり、隙間から細いピンク色の棒をケージに差し入れて縦に振っていた。ちりんちりんと、鈴の音がする。中の猫とそれで遊んでいるらしい。嘉島さんが千紘ちゃんの頭に手を乗せると、彼女はいやいやをして手を振り払った。はは、と嘉島さんは笑う。

「息子夫婦が夏の間家を空けにゃならんというんで、しばらくうちで預かっとるんです。飼ってる猫と一緒に……」

「ラビっていうんだ」

 千紘ちゃんがケージを見つめたままそう言った。

「毛が真っ白だからラビ。一歳くらいで捨てられてたのを、お父さんが拾ったの」

「あ、そうなんですね。さっき名前を聞いて、てっきり耳が長い猫なのかと思いました」

 新里は千紘ちゃんに向けて、両手で頭の上にうさぎの耳を作ってみせた。ロップイヤーの白猫がにゃあと鳴く姿を想像してみると、かなり不気味だ。

「昨日になってこの千紘が、いきなり猫島へ行きたい言いはじめたんです。そら、私の家からは電車で来れん距離とちゃいますけど、そない急に言われても、船に乗るから日帰りでは行きづらいでしょ」

「だって猫だらけの島があるなんて、全然教えてくれなかったじゃん」

「おじいちゃんも、千紘が言うまでそんな島あるの知らんかったんやで。……そんでまあ、ラビはちょっと体も弱いもんですから、家に置いていくわけにもいかんで、こうして連れてきたんです。でも、他の猫と混ざってしまうんちゃうかと思って心配で……」

 そう口をすぼめたお爺さんに、新里と女の子は揃って首を振った。新里と千紘ちゃんはまだほとんど言葉を交わしてさえいなかったが、不思議と二人は歳の離れた姉妹のように見えた。

「お爺さん。私もマンションに越すまで猫を飼っていたから分かります。飼い主は、飼い猫の見分けくらいちゃんと付きますよ」

 新里は千紘ちゃんの方を見て、ね、と同意を求めた。千紘ちゃんが頷くと、ケージからもちりんと鈴の音が返ってきた。

 旅客の乗り降りを終えたフェリーが、汽笛を鳴らし、ゆっくりと港から離れていく。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)