じゃあ、また、御器所駅で!

有末ゆう

1:六月十三日と、ちょっと昔と、もっと昔のこと

 

 名古屋市営地下鉄桜通さくらどおり線で桜さくら本町ほんまち駅から名古屋駅までは十三駅ある。だけど名古屋駅まで行こうと思っている私こと坂崎さかさき佐久さくが桜本町駅の券売機に入れたのは、三駅を行くだけの料金だった。

 切符を改札に通して掲示板を見ると、あと一分もしないうちに私の乗る、中村なかむら区役所くやくしょ行の電車が発車するようだった。私はだから急いで階段を駆け下りて、扉が開いていた電車に駆け込んだ。日曜午後の二時半頃とあっては車内はがらがらで、私はだから座席に座れた。やがて空気が抜ける音と共に扉は閉まって、電車は滑るように走り始めた。

 電車はすぐにトンネルに入った。外の景色はだからコンクリートの壁だけになって、コンクリートにお熱でない私はだから持ってきた文庫に目を落とした。

 桜本町駅から御器所ごきそ駅までは五駅あって、一駅二分ほどかかるから十分くらいが経っていて、私は十ページほど読んだあたりで小説を閉じた。

 名古屋駅が目的地であるところの私は、だけど御器所駅で降車した。

 改札に用の無かった私は階段には向かわないで、島式ホームの真ん中に置かれているベンチに腰掛けた。

 やがて、向かいのホームに野並のなみ行の電車がやってきた。

 野並行の電車がホームに止まった。

 それとほぼ同時に、私の乗ってきた中村区役所行の電車の扉が閉まって、ゆっくりと走り出した。

 野並行の扉が開いてすぐ、私の待っているあの子が出てきた。

 御器所駅は鶴舞つるまい線との乗換駅だから乗降客が多くって、だから彼女の後にも何人か乗客が降りてきた。

 真っ白な、少しだけサイズの大きな山高帽を被った彼女は俯き加減に歩いてきた。見ればヒールの少しく高い靴を履いていて、きっと彼女はそれに慣れないでいるのだろうと、私は思った。こちらを見ていない彼女に自分の居場所を知らせたくて、私はだから「おーい」と言って手を振った。彼女は私に気付いたようで、足早にこちらに近づいてきた。隣に腰掛けて、帽子のつばをくいっと上げる。口元はにっと歪んでる。

「びっくりした」彼女は言った。「佐久、いつもと全然違う服着てるんだもん」

「兄貴の」私は自分の着ている灰色のパーカーの生地をつまんだ。「サイズが合わないからって、くれた」

「ちょっとサイズ大きい?」

「だぼだぼでしょ」

「いいと思うけど」

「そう?」

「気遣いとか憐憫、そんなで話さないじゃん私」

「それもそうだ」

「暑いね」

 彼女は山高帽を脱いだ。栗色の髪の毛はぺったりとしていて、汗ばんでいるみたいだった。車内の空調は私の方とおんなじで、あまり効いていなかったんだろう。

 こちらをちらりと見て、彼女――余目あまるめ優芽ゆめはふとわらった。私も、自然とだからたぶんわらっていた。

 優芽の唇は油のようなものでつやつやしていた。口の端には揚げ物の衣の欠片みたいのが付いている。きっと名古屋駅で寄り道でもしてきたのだろう。優芽は普段中村区役所から電車に乗ってくるのだけれど、その駅は始発駅で、しかも乗客は少ない。そうすると座席に座れるはずで、そうであるならばここに来るまでに彼女より出入口に近い位置にいくらか人が立つはずで、だから、彼女がここ御器所駅にいの一番に降りてくるっていうのは、考えにくかった。だけどさっき彼女は最初に降りてきたんだから別の駅から乗り込んだということだろう。名古屋駅にはこのところ地下鉄の改札の内側でスティック唐揚げなるものが売られているって話で、優芽はそれを食べたんだろうと考えた。だからいいなあ後で私も食べようと思った。

「そういえば、優芽、そのブラウス」私は彼女の服を指さした。

「ああ、うん」優芽はこれまた真っ白な半袖のブラウスをつまんでみせた。これも帽子同様、少しサイズが大きかった。「アマゾンで買って、ちょっと大きかった。どう?」

「大きいね」私は頷いた。「でも似合ってる。いいねゆったりしてるの」

「お揃いだ、期せずして」

「ほんとだね」

 それで、私達の間に会話は無くなった。優芽は駅の壁をぼんやりと見つめている。私はカバンから小説を取り出して読もうかと思ったけれど、やめておいた。なぜって、優芽は何か話したいことがあるんじゃないだろうかと思ったからだった。第一に昨日は優芽の大好きな作家の新刊が出る日だった。第二に昨日は土曜日だったので、彼女は書店に行ってその新刊を手に入れているはずだった。第三に、私も彼女ほどではないけれどその作家を追いかけていて、それゆえ彼女が新刊を読み終えているのならその話題を振ってくるはずだった。第四に彼女は、読み通していない本については話をしない性格をしていた。だから彼女はまだその新刊を読み切っていないはずだった。また、彼女は小説を持ち歩いて読むのを常としているはずだったから、いまも新刊を持っているはずだった。だけどいまのこの沈黙の中で、彼女はそれを取り出して読むようなことはしていなかった。ゆえに彼女は、なにか私に話したいことでもあるんじゃないかと私は思った。そんなときに私が小説なんて読み出したら優芽は話しかけるタイミングを見失ってしまうわけで、私はそんなことできなかった。

 だけどそのままずぅっと沈黙が続いて、やがて中村区役所行の電車がやってきた。私にはだから、優芽が何を考えていたのか分からなかった。

 私は立ち上がって、優芽に目配せをした。彼女は小さく頷いた。

 私は、私の切符を彼女に差し出す。

 彼女は、彼女の切符を私に差し出す。

 彼女はそれを受け取って、私もそれを受け取った。

 私は、「じゃあ、またね」と手を振って電車に乗り込んだ。

 窓の外を眺めれば、ベンチに座った優芽がひらひらと手を振っていた。私も振り返して、やがて電車は走り始める。すぐにトンネルの中に入ってしまって、彼女の姿はだから見えなくなった。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)