POINT OF VIEW

柴田楼

 黒沢博にLINEを送ってから二か月が経過した。その間、差藤が片時たりとも黒沢のことを忘れはしなかったと言えば嘘になる。

 四日前、差藤は改めてLINEを送った。しかし今回も既読はつかなかった。この時点でやおら胸がざわつき始めた。

 黒沢とは映画の鑑賞を目的としたインカレサークルの会合で知り合った。二週間に一回、渋谷のビルにある貸し会議室を使って、常時三十人ほどの会員が土曜日の午後に集まり、鑑賞会と情報交換を目的とした交流がおこなわれる。黒沢の所属するW大学の学生は会議室の一角に固まって座る傾向にあったが、黒沢だけは窓際の離れた席に一人で座り、鑑賞会が始まるまでの時間を読書に費やしていた。窓の真正面には電信柱があり、絡み合う電線の向こうには広告や看板の海が広がっていた。

 H大学から参加する学生は差藤のみであったので、一年生の春頃、差藤は座る位置に悩み、鑑賞会後の交流では毎回所在なげにしていたが、ある時黒沢の斜め後ろに着席したところ彼が振り向き、その当時の新作映画の話をしたことをきっかけに、映画だけでなく小説の趣味まで合うことが判明したので、以降差藤は黒沢の斜め後ろの席を定位置として、会合を黒沢目当てに参加するようになった。黒沢の方が二学年上であるため、差藤は彼の教えに導かれるまま勧められた映画や小説に触れていった。

 差藤は二年生になり、サークルにもだいぶ馴染むようになっていた。就職活動などといった下賤な話題を持ち出すことが躊躇われるような雰囲気を黒沢が醸し出すため聞きそびれていたが、どうやら卒論を提出するつもりがないことだけは窺われたため、今年は留年するのだろうと差藤は推測していた。

 今年の一月のことだった。差藤は黒沢に一冊の本を貸した。アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』。ヌーヴォー・ロマンに強いW大学ならばまず間違いなく図書館に所蔵されているはずだったが、差藤の本棚にあることを知った黒沢がぜひ貸して欲しいと言うので、差藤はカバーがパラフィン紙に包まれた『嫉妬』を黒沢に貸した。言及される頻度が高いわりに復刊されるという噂もないため、五百円で売られているのを見つけた際に迷わず買った本だった。

 しかし『嫉妬』を貸した二週間後から黒沢はサークルの会合に姿を現さなくなった。過去にも幾度か音沙汰なく欠席することがあったので、差藤は特に心配しなかった。それに加え、黒沢以外の会員との関わりが増えた結果、黒沢一人にこだわる必要性がもはやなかった。

 年度が変わってからも黒沢は現れなかった。

 黒沢が卒業する前に『嫉妬』を返却してもらおうと差藤が行動を始めたのは八月のことだった。と言っても黒沢の電話番号や住所を知らないので、LINEを一通送っただけだが、差藤はこれに満足し、黒沢からの反応を得られないのは就活で忙しいからだと一人で納得して二か月間催促せずに過ごした。四日前に再びLINEを送った際にも差藤に緊迫感はなかった。

 ところがこれにも返信がないとなるといよいよ連絡手段が尽き、黒沢の身に何か起こったのではないかという予感が遅まきながら芽生えて不安になったため、次回の会合の際にW大学の学生に黒沢の消息を尋ねてみることにした。

 

 JR渋谷駅の南改札より徒歩四分に位置するビルの貸し会議室で会合はおこなわれる。マクドナルドや予備校のある通りを進むと駅周辺の喧騒が消えて雑居ビルの並ぶ裏通りに出る。歩道橋を渡り、数メートルおきに路上駐車に出くわすような通りを進むと目的地であるガラス張りのビルのある一角に到着する。

 四階の会議室のドアを開けると既に会員の過半数が揃っていた。差藤はプロジェクターやスクリーンの準備をする会員たちに挨拶し、W大学が占拠する机に向かった。

 W大生は四人いた。彼らと声を交わすことはあるが親しくはない。差藤と同学年の北山は足を組み、スマホを片手にソシャゲの操作をしつつ背後の後輩二人と会話をしていた。差藤が近づき、単刀直入に黒沢は最近どうしているかと尋ねると、

「黒沢サン? ああ、あの人ね」北山はスマホの画面から目を離さずに、「知らないよ。もう半年は会ってないんじゃないかな」

 半年前には会ったのかと尋ねた。北山は差藤に顔を向けたが視線は定まらない。

「つってもこのサークルでよ? 差藤サンもいたんじゃないかな」

 ならばそれは今年の一月のことだと述べると、

「うわそっか。そんな前か。じゃあ知らないな。ここ以外の場であの人と会わないからさ。でも就活とか卒論であの人も色々と忙しいんでしょ。大体去年もさ、四年生にもなってここに来てる方がおかしかったんだよ」

「黒沢さん見ましたよ」

 割り込んできたのは黒沢と同じ社会学部に所属する二年生の山室だった。春学期に環境社会学1の講義に出席している黒沢の姿を目撃したのだという。

「板書の多い講義でして。書いた傍から教授が板書を消していくからついていくのが大変なんすよ。最初、黒沢さんと一緒だと解った時には、恥を忍んで最悪あの人のノートを写せばいいかと思ったんですが、あの人、ノートとらないんです。講義を聴いている風には見えるのに、両手がずっとポケットの中なんです。何なんでしょうね、あの人。卒業がかかってるでしょうに」

 黒沢に話しかけたかと尋ねると、

「別に。そんなに喋ったことないんで。向こうもわたしのことよく知らないでしょうしお互い様っすね」

 山室は差藤ではなく北山に向かって報告した。全十四回の講義のうち、山室が参加した講義のすべてに黒沢は参加しており、期末試験を受ける姿も山室は見たというから、現時点で黒沢の生存は七月末までは確認することができた。

「スーツで出席している時もありましたね」

「就活だな」

 そこから北山が夏休みに参加したインターンの話を始めようとしたので差藤はそれを押しとどめ、黒沢の連絡先を訊くと、K大学の会長に頼むといいと言われた。会長の管理するサークル会員名簿に住所と電話番号を記入する欄がある。

「今年の名簿に黒沢先輩のページはないよ。会費を払ってないから。だからあの人は現在このサークルの会員ではない。書類上はね」

 鑑賞会後の情報交換が終わると、差藤はK大学の小泉に話しかけた。会長職を引き継いだ小泉は今年度に入ってから黒沢に何通かLINEを送っていたが一向に既読がつかないため、黒沢は消極的な態度によってサークルの退会を表明しているのだろうと小泉は解釈したのだという。差藤の伝えた黒沢の目撃談は、小泉の考えの補強材料になった。

「来る者拒まず、去る者追わずの緩いサークルだからね。しかし意外だな。差藤さんは黒沢先輩と仲がいいように見えたから、てっきり個人的な付き合いがあるものだと思っていたけど、差藤さんの方でも音信不通なんだね」

 黒沢とサークルの外で会ったことは一度もないし、LINE以外のSNSでも繋がりはない。大半の会員は見えない力によってSNS上の相互フォローを強制されていたが黒沢のアカウントを知る者は差藤含め一人もいなかった。SNSをやってはいないがたまに見る、と黒沢が言うのを差藤は聞いたことがあった。

 会員の名簿をおさめたクリアファイルを手繰りつつ、

「去年の分はT大の鈴木先輩が持っているはずだけど、あの人と連絡は取れる? あ、そう。じゃあ俺が聞いとくよ」

 

 四日後、小泉の手配により差藤は黒沢の電話番号と住所を知ることができた。

 小泉から連絡が来た時、差藤は大学附属図書館の自習室にいた。

 廊下に出て黒沢に電話をかけてみた。しかし呼び出し音すら鳴らずに通話が終了した。電波が悪いのかと思い図書館の外に出たが事情は変わらない。調べてみると着信拒否の可能性があり、黒沢がこちらの電話番号を知るはずもないとは思いつつ、非通知でかけ直してみたがやはり繋がらなかった。

 黒沢は西新宿にあるアパートに住んでいるようだった。W大学から近い。下宿だろうか。てっきり黒沢も自分と同じく都内の実家暮らしだと考えていた。

 何かを考えるためには圧倒的に材料が不足している。頭を悩ませていても無駄だ。黒沢のアパートに突撃してしまえばすべては解決する。そう思い差藤は講義を終えると自宅へ帰らずに新宿駅へと向かうことにした。

 JR総武線に差藤は乗った。差藤は会社員の男性と女子中学生の間に座ることができた。脱毛や自己啓発本、ドラマ、転職サイトの広告を見るのが不快であったが、視線をおろすと真向かいの乗客と目が合いそうで、だからと言って自分の膝を見るとなると両隣の乗客の手元にあるスマホの画面や単語帳を盗み見していると勘違いされそうな気がするので、差藤は瞼を閉ざした。

 黒沢の下宿に向かうにはとりあえずのところ都庁に向かえばいいことが解っていた。新宿駅に到着すると差藤は西口地下広場に出た。通行人の間を縫いながら東京都庁方面を指示する案内板に従い、ロータリーに沿って進むと、人の流れが緩やかになる。鳩が通路を気ままに歩いていた。

 地下通路に向けて足を運ぶと、右側の壁面に巨大な目のオブジェが現れる。その名も〈新宿の目〉と題されたこのガラスの目に視線を向ける者など誰もいない。

 白色の地下通路の出口の先には新宿副都心の高層ビルが左右に広がっている。繁華街のざわめきからは遠く、静けさがあたりを覆っている。舗道の真ん中には花壇が数メートルおきに配置され、プレートを見るにこれらは東北の復興支援の一環であるのだという。

 高架下の横断歩道の傍にダンボールの束やスーツケース、開きっぱなしの傘に囲まれたスペースがあった。通り過ぎると老人が一人横たわっているのが目に入り、差藤はすぐに視線を逸らした。バラックの周辺には落ち葉が散らばっていた。

 横断歩道を渡って右に曲がり、左手の柱廊を抜けると都議会議事堂に囲まれた半円形の都民広場に到着した。見上げれば東京都庁第一本庁舎が屹立し、広場を睥睨している。広場にはカメラを持って撮影する男性の他に人の姿はない。丸く切り取られた空はまだ青いが、日が傾き、えも言われぬ寂寥感に広場は包まれている。犬の抜け毛を押し潰したような雲が都庁の背後で風に吹かれていた。

 都庁に用はない。差藤はスマホを取り出して黒沢の下宿の位置を確認した。新宿中央公園を突っ切る必要がある。

 都庁とは一転して中央公園の芝生には人が溢れていた。都民の憩いの場として開放されているようだが、園内の各所に設置されたベンチに座る利用者らはまるで教室内の生徒のように身体を一つの方向に向けていた。

 公園を出て横断歩道を渡ると住宅の密集する地域に入る。坂をのぼり、地図アプリを確認しながら黒沢の住むアパートを探す。下校中の高校生と何度かすれ違いはしたものの住民に遭遇することはなかった。

 年季の入った二階建てのアパートが目的地だった。塀に隣接して駐車場があった。

 外付けの階段をのぼると、二階の通路の一番奥に黒沢の住む二〇四号室がある。ドアノブに傘をひっかけた部屋や折りたたみ式の自転車を立てかけた部屋があるということは、このアパートにはちゃんと住民がいるということだ。

 黒沢の部屋の前に立った瞬間、差藤は怯んだ。音割れのするインターホンを押しても反応がなく、しばらく耳を澄ませてみたが中に人の気配は感じられず、既に予感はしていたのだろう、案の定、という思いを差藤は抱いた。

 しかし最悪の事態ではないと思われる。ドアの備えつけのポストには郵便物がたまっておらず、嫌な想像だが、腐臭が漂っているわけでもない。引っ越したのでなければ、おそらく黒沢は外出中であり、今回はタイミングが合わなかっただけだろう。

 このまま張り込みを続けていてもいいが他の住人に不審に思われると困る。ルーズリーフに「お久しぶりです お留守のようでしたので帰りますが、この紙を見たら反応ください 差藤」と書いてから、念のため自身の電話番号も加え、折りたたんでそれをポストに入れた。

 

(続きは『蒼鴉城 第47号』で)