鳥類学者の記憶法

鷲羽巧

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 思えばはじめから鳥に導かれていたのだと、きみは振り返ることになるだろう。十一歳の春、課外授業で訪れた大学の構内。鳥を追いかけているうちにきみは自分の居場所がわからなくなる。珍しい鳥だったわけではない。その姿を追いかけたのはクラスメートたちから離れる云い訳に過ぎない。昼食を終えて駆け回る輪に交じることができなかったきみはひとりでどこかへ去るための道しるべを必要としていただけだ。だから鳥を見失っても悲しくはなく、ただ考えなしに駆けだしたことの後悔の方を強く覚える。ここはどこ? ここは何? きみは自分に問いかける。ぼくはどうしてここに来たんだろう?

 不安が苦い味をともなって喉の奥から這い上がるのを感じて、無理矢理にでも顔を上げる。そうすれば大丈夫だと母が云っていたのを思い出す。そのひとを見つけることになったのは、だから母の言葉のおかげかも知れない。

そのひとはくすんだ煉瓦の建物の窓から上半身を突き出している。ぐっと片手を伸ばしていまにも落ちてしまいそうだ。けれども表情は微かに笑っていて、もしかすると落ちることなくそのまま飛んで行ってしまうんじゃないかと思ったときには涙も苦みもどこかへ消えている。やがてそのひともきみを見つける。そのひとが老人であることにきみは気づく。老人はきみに向かってはにかみながら会釈して、今度こそ窓から落ちそうになる。老人は慌てて窓枠を掴んで何かを云う。いやあ参ったなあ、とか、ちょっと危なかったよ、とか、みっともないところを見せたね、とか。幾らか距離があるからきみは老人の唇を読むことができない。照れたように笑う老人へ返事をする代わりに手を振って、きみは煉瓦の建物に入る。階段を上って、老人がいるはずの部屋へ走る。建物にひとけがないことも、外の壁どころか中までくすんだように仄暗いことも、そのときのきみは気にならない。

照明が落とされた廊下に窓から差し込んだ光は積もりゆく埃を輝かせている。きみが一歩進むたびに風が生まれて埃が舞い踊るのがわかる。いままでにない類いの昂奮と、烈しい運動に、心臓が強く鼓動を打っている。きみが聞こえる唯一の音。

部屋をきみはすぐに見つけることができる。ノックを三度。どん、どん、どん。音がわからないから、とにかく力いっぱい叩く。内側から開かれた扉の向こうに老人は待ち受けている。やあ、こんにちは。珍しいお客さんだ。老人は快くきみを迎え入れる。どうしてこんなところに?

きみはうまくこたえることができない。ぼくはどうしてここに来たんだろう? 

老人はきみの返事を待っている。にこやかに。そして目の前の少年の右耳についた補聴器をみとめる。ああ、すまないね。そうだったのか。得心した様子で老人は机の上を漁りはじめる。そこに置かれた鳥の骨格模型がきみを睨みつけるように見下ろす。

老人は散らかった机からやっとノートとペンを探し当てる。そこに言葉を書き付けてきみに見せる。こんにちは。読みやすいように、わかりやすいように書こうと云う意志がはっきり伝わる、けれど普段の癖を抑え切れていない筆跡。あなたはだれですか? それからノートとペンを渡してくる。

きみは自分の名前を書こうとして、躊躇う。知らないひとに名前を教えてはいけませんと母はよく云う。だからきみはこう書く。あなたはだれですか?

老人は笑う。一本とられたね、これは。

さらに付け加える。何をしていたんですか? 机の上に乗っている機械を目に留める。先ほど老人が持っていた機械のようだ。

老人はかがんで、ノートを受け取ろうとする。きみはかぶりを振って、口許を指さす。老人はまた得心したように肯く。はっきりと口を動かしながら、老人は云う。わたしは千波(せんなみ)。大学教授です。机の上の機械を手にとる。それがテープレコーダーだとようやくわかる。さっきは、鳥の声を録音していたんだ。

ノートに書く。なんの鳥ですか?

ツバメだよ。南からかえってきたのさ。

わたりどりと書く。相手は肯く。その言葉をきみは理科の授業で習ったばかりだ。千波と云う老人の言葉を理解できたことが嬉しくなる。聞き取れた、とも、何を云っているかわかった、とも違う。理解。どうしてツバメの鳴き声を録音するんですか、と書こうとする前に、千波は云う。ツバメじゃなくても録音しているよ。日課――毎日やっていることなんだ。

どうしてと云う言葉だけがノートに残される。問いを勝手に読み取って、千波はこたえてくれる。

どうして記録するかと云うとね。千波は両手でレコーダーを揉み込むように持っている。記憶するためだよ。

しかしきみはその言葉を、ノートに記録することなく、ずっと憶えたままでいるだろう。

 

    1

 

 少し早いですがきょうのところはこれで終わりましょう、と先生が云うやいなや学生たちは手早く筆記具を片付けて、三々五々に散った。つい数分前までは席の半分近くを埋めて真面目に黙々と講義を聴いていた彼らは、いつの間にか群をつくったりほどいたりしながら、まるでここに集まっていたことが何かの間違いだったかのようにそそくさと出て行く。次に向かうべき講義もないわたしは混雑を嫌ってしばらく座ったままでいた。窓の外を見やれば台風一過の抜けるような青空で、室内にいることが馬鹿馬鹿しくなる気持ちもわからないではなかった。

 四回生の秋である。学業の中心はとっくに研究室に移っていて、単位も不足はないはずだから、この《アメリカ文学講義Ⅱ》はほとんど趣味で履修したようなものだった。空いたコマをどう埋めようか迷っていたとき、いつも何かと世話を焼いている――と同時に、焼かれている――後輩に、いっしょに受けてみませんか、と誘われたのだ。めったに自分から何かを押しつけない彼女が薦めるだけあって、講義は門外漢のわたしにもわかりやすく、それでいてアメリカと云う奇怪な国を掘り下げるものだった。

 しかしきょう、講義室には肝心の彼女――十文字あやめの姿が見えない。ふたりで同じ講義をとることの利点は、どちらかが休んでも種々便宜を図れることであり、いままでも何度かお世話になったけれど――そう、世話とは、焼くし、焼かれるものだ――その恩恵に彼女の方があずかるのは稀だ。季節の変わり目に風邪でも引いたのかも知れない、あとで見舞いにでも行ってやろうか、と思って起ち上がったところで、「深山くろはさんですよね?」と声をかけられた。

 振り返れば、初老の小柄な女性が手招きしている。この講義の担当教員であり、その小動物めいた外見と優しい声音にそぐわず、不思議と有無を云わせない雰囲気がある。

そしてわたしの名は、深山くろはと云う。「はい、深山ですが……」

 怪訝な表情が漏れていたのかも知れない。先生は安心させるように微笑んで、「わたしの授業は、代返が効かないことで有名なんですよ」

 つまり、学生の顔と名前を把握している、と。おそろしい。

「それに、あなたは法学部の学生でしょう。他学部の子が挫折しないでこの講義を受け続けているのだから、憶えないわけありません」

「あ、もしかして、文学部生しか聴講できないんですか」

「いえ、そんな制限はしませんよ。たとえ履修できなかったとしても、どうぞ潜って紛れて聴いてもらって構いません」毅然として云う。

あるいはその態度こそが、あやめをしてわたしに受講を薦めさせたのかも知れない。あやめは以前から彼女のゼミに何度かお邪魔していると云うことだった。

「そのことではなくて……、講義の前に教務から内電があってね、このコマが終り次第、深山と云う学生を理学部旧四号館までやって欲しい、と」

「わたしを指名したんですか? 先生を通じて?」

「ええ。多々良とか云う、警察の方からの伝言らしいですよ」時代がかったパンスネをかけ直す。「……何か心当たりはありますか? 警察沙汰で、急を要するなら、こんな回りくどいことはしないはずだけれど……」

「大丈夫です、多々良と云う方ですよね、心当たりあります」

「そう、それなら良かった」

 先生は資料を抱え直して、講義室の扉に手をかけた。「そうそう、それから……、深山さん、あなた、十文字さんのことで何か聞いていますか? きょうは珍しく欠席しているようだけれど」

「いえ、何も。でも、居場所はわかります」

具体的な想定はできないけれど、十中八九、彼女は多々良といっしょにいるだろう。でなければ、わたしが呼びつけられるはずも、わたしがこの時間この講義を受けていることがすぐにわかるはずもない。

先生は、ほう、とか、そうですか、とか呟いて、今度こそ扉をくぐった。室内にはわたしだけが残る。

「離れていても居場所はわかります」

 あらためて声に出してみると、なんとも笑えた。

 

 酉都市街がある土地はもともと一面ススキ野原で、戦前に置かれた弊学を中心として街が形成されたと云う。そうしてできた市街の隙間を縫ったり、外縁をなぞったりするようにして、戦後は弊学のキャンパスも拡大され、それに応じて街も拡がった。だから酉都大学と酉都市街はひとつの土地で複雑に共存していて、街をはじめて訪れるひとにはなかなかパッチワークの境界が見分けられない。何を隠そう、わたしも入学当時はそうだった。けれど来訪者たちはやがて気づくのだ――境界線を見分ける必要などない、と。そのとき、客人はこの街の住人になるのだろう。

 しかし、校舎の場所くらいは把握しないと大学生活はままならない。市街全体に散った学び舎の大まかな位置ならば、わたしも頭に入れている。四回生にもなると慣れたもので、複雑なバス路線もなんのその、風羽山のふもとでどっしりと構える理学部のキャンパスに、わたしは迷うことなくたどり着いた。山のてっぺんに据えられた天文観測所が目印である。

 旧四号館なる建物は存在も場所も知らなかったが、パトカーが見えたので追いかけてみると、ただでさえ街の縁にあるキャンパスのさらに縁に佇んでいるくすんだ煉瓦造りの四階建てがそれだと知れた。警察によって立ち入りが制限され、野次馬なのかたくさんの学生が侵入防止用テープのギリギリまで詰めかけている。

「何があったんです?」と群衆のひとりに訊ねるが、「さあ?」「何があったか聞いてる?」などと返されるばかりだった。少しく遠くで、誰かが誰かに云うのが聞こえた――死んだんだってさ。誰が? 誰かが。

諦めて、ひとをかきわけ最前線まで歩み出る。下がって、と云いかけた警官に多々良の名を出すと、しばらく迷ってから彼を連れてきた。

「お呼びでしょうか、警部」小さく敬礼。

「わざわざありがとうね、深山くん。――入れてやれ、彼女なら構わん」洒落には応じず、警部――酉都市警刑事課・多々良警部はテープを上げてくれた。

 多々良警部の下の名は知らない。あやめは知っているらしいが教えてくれない。動物園の熊よろしくでっぷり太って毛むくじゃらだけれど、妙なところに紳士的で、わたしとあやめのことをそれぞれ「深山くん」「十文字くん」と教師か何かのように呼ぶ。煙草も吸わないし酒も嗜む程度だ。なぜそれを知っているかと云うと、あやめが警部の事件に関わるたび、学生を警察の仕事に巻き込ませてしまった償いとして何かとご飯を奢ってくれるからである。むしろあやめが積極的に関わることが多いのに、律儀な大人だ、と思う。あやめが全幅の信頼を寄せる数少ない壮年男性のひとりだ。

何も云わず歩き出した警部の背中に訊ねた。「あの、あやめは、ここに来てますよね?」

「当然。きみをここに呼んだのは彼女だ」

「わたし、何も聞いてないんですけど……」どこへ連れて行かれるのかもわからないまま、警部の後ろを歩く。「外で、誰かが死んだ、って聞きました」

「聞いてるじゃないか。その通り、死んだ。殺されたんだ。千波惣一って云う、ここの大学教授だ」しばし、苦虫を噛むような表情をして、「すまないね。ちょっといつもと勝手が違う事件で。つい、ぶっきらぼうなもの云いになった」

 いえ、とか、そんな、とかもごもごと返した。狭く、ひとけがない廊下を、しばらく黙って歩く。理学部旧四号館は歪なロの字型をした建物で、どうやら一部の研究室を除いて現在はほとんど使用されていないらしい。掃除も管理もされていないようで、大きな蜘蛛の巣が張った窓の向こうには荒れ放題の中庭が見えた。

何度か刑事らしいひとや制服姿の警官たちとすれ違ったけれど、不思議と彼らの気配もかき消されてしまい、虚ろな印象だけが空間に残される。場合によっては懐かしく思えたかも知れない古びた建築は、ひとの死をすでに聞いていたからだろうか、むしろ寒々しいと感じた。

 階段を上りきったところで、警部はまた話し出す。

「千波惣一は今年退官予定だった。鳥類学を専門としていたが、身体的な限界もあってここ一、二年はフィールドワークにも出ないで、基本的に研究室で籠もりきりだったらしい。その研究室も、新しい理学部四号館にほかの研究室が引っ越したなかで、自分はあと数年で辞めるのだからと、同じく近いうちに解体される予定だったこの旧四号館に居座り続けたんだ」

 酉都大学は常にどこかのキャンパスで新しい設備や建物がつくられているともっぱらの噂だが、開発されるものもあれば当然置いてゆかれるものもあって、大学の至るところにこの旧四号館のような、壊されるのを待つ建物が散逸している。かつては学び舎として立派に使われていたはずなのに、そう云う建物はどうしてか、ひと目から隠れるようにひっそりと建っていることが多い。

 学部が違うのだから知らなくて当たり前なのだけれど、千波と云うその教授の顔や名前どころか存在も知らなかったことを、申し訳ないと感じた。

「千波の遺体が発見されたのはきょうの午後二時過ぎ。正確には、死に際を発見されて、助けが間に合うことなく亡くなった」

「それは……、発見したひとはつらいでしょうね」

「そう。その発見者が問題なんだ。どうにもね……」

 警部が立ち止まった部屋が「現場」らしかった。その区画はひとが使っていたからか、周囲よりもまだ壁も窓も綺麗で明るい。扉は開放され、室内では鑑識官や刑事たちがぼそぼそと言葉を交わしている。皮肉だが、ようやくひとの気配を感じられてほっとした。

 警部はわたしを「現場」の隣の部屋に通した。代わりに、室内にいた三人の男女を呼びつける。ひとりは痩身、ひとりは長身、ひとりは豊満。その程度しか見分けられないまま、三人は部屋を出て行った。最後にすれ違った女性の、舐めるような視線を感じた。

警部は、連れてきたよ、と部屋の奥に声をかける。見ると、隅に押し込まれたぼろぼろのソファに、わが後輩が腰掛けていた。すっと伸びた背筋が鋭い目つきとあいまって初めこそ険のある印象を与えるけれど、僅かに伏せられた顔の口許は引き結ばれ、まるで嗚咽を我慢しているように見えなくもない。以前当人にそれを伝えたら、泣きぼくろに印象が引っ張られているんですよとすげなく返された――そう、そこに座っているのは間違いなく十文字あやめだ。

 や、あやめ、と声をかけたところ、彼女はわたしと目を合わせるなり、ひとさし指を唇に当てて、しい、と息を吐いた。そして同じ指をくるりとひっくり返し、膝をさす。差し込む斜陽を背で遮るあやめの陰で、十歳くらいだろうか、男の子が彼女の膝を枕に眠っていた。

 わたしはどう反応するべきかつかの間、迷った。少年を起こさないようにしようとまず思って、それからあやめが片手に持っている補聴器に気づいた。少年の顔には涙のあとが残っている。彼の頭をあやめが可能な限り優しい手つきで撫でる。わたしは警部の方を見た。そう云うことだ、と警部は口だけを動かして云った。またあやめの方を見て、わたしは肯いた。彼女も肯いた。

わたしは状況を察した。わたしが呼ばれた理由も、また。

 

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)