盛夏

最上いつき

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 後悔の念がわいてきたのは、通話を終えてからだった。「自分でタクシーを拾うとかはできませんか」きっとその言葉は、通話を切るタイミングを与えようとしてくれていたのだ。「ネットで探せば見つかりますよ、夜間診療の病院は」

 サイレンの音が近づいて来る。呼んでから五分も経っていない。音の高さが変わるより前に、サイレンは止んだ。カーテンの隙間から窓の外を覗くと、ランプの光が夜の住宅街を染めていた。闇と赤色灯のコントラストは心をざわめかせるものだった。僕は玄関の鍵を開けた。ピンポン、とチャイムが鳴った。扉を開くと、四十くらいの男が二人、マスクに透明な保護メガネ、ヘルメットという物々しい格好で立っていた。切れかかった電灯の下、廊下は薄闇に包まれていて、二人の姿はどこか不気味だった。青い長そでのジャンパーに、紺色の長ズボン。八月は中旬に差し掛かっていて、日が沈んでも気温は三十度に近い。暑そうだな、とぼんやり思った。救急車を呼んだというのに、僕の意識は他人の服装に向いていた。

「どうしました?」と救急隊員の一人が尋ねた。言葉遣いは丁寧だったけれど、口調は高圧的だった。近所のことを意識してか、声はそこまで大きくはなかった。こちらの方が少しばかり年配に見えた。

「横になっていたら、急に息が苦しくなって」小さく、か細く。できるだけ、弱々しい口調を心かけたつもりではあった。けれど、救急隊員の眉間には皺が寄せられた。「今も続いているんです、喉に何かが詰まったような感じが」しどろもどろでつけ加える。皺の深さは変わらなかった。

「なるほどね」高圧的な口調も変わらない。「とりあえず検査をしますので、車に乗ってもらいましょうか。保険証と、お財布と、それからまあ電話があれば十分でしょう」彼はそう言って、僕の足元へと目を移す。「歩くことはできますね」

 頷き、部屋へと戻る。戻るといっても玄関から中の様子が一望できる六畳一間のワンルームなので、言われたものはすぐに用意できた。昼間履いていたジーンズから家の鍵を取り出した時、寝間着から着替えるべきだろうかと、ほんの一瞬だけ思った。あるいは、靴下くらいは履くべきか、とも。けれど、着替えなんて振舞は救急の患者には似合わない。エアコンを消し、サンダルを履き、玄関扉に手をかける。「電気」と言って、救急隊員は部屋の中へと顎をしゃくる。「消さなくてもいいんですか?」つま先でサンダルを脱いで、スイッチを切る。部屋にできた暗闇の中に、赤い点滅がくっきりと飛び込んできた。

 廊下に出て、扉を閉める。外階段は狭い通りに面していて、向かいのアパートの白い壁の反射から、ランプの回転が見て取れた。鍵穴に錠を差し込んだ。扉の軋む音が聞こえた。救急隊員のすぐ後について、一階分階段を降りる。京都市消防という五文字に僕の影が重なっていた。踊り場から少し身を乗り出すと、駐輪場のすぐそばに停められた救急車の姿が見えた。

 通りに出ると、救急車の後部ドアは既に開かれていて、あかりのつけられた後部座席を一望できた。後部座席には担架があり、そのすぐわきには長椅子が置かれている。「担架に、横になってください」救急隊員の言葉に随い、車に乗り込んだ僕は、そのまま担架に身を横たえた。隊員の一人は長椅子に腰かけ、もう一人は枕元に立つ。その手にはバインダーとボールペンが握られていた。「保険証を出していただけますか?」言葉に随って、財布から保険証を取り出した。枕元の隊員は、受け取るとバインダーに何かを書きつけた。

「失礼しますよ」長椅子に腰かけた救急隊員が二の腕のあたりに、コードに繋がれた布のような器具を巻き付ける。器具は音もなく膨らんで、僕の腕を締め付ける。枕元のモニターにきれいな波形が映し出される。

「息苦しい、と言っていましたが」枕元の隊員が、バインダーに視線をやりながら尋ねる。「それはいつから?」

「二十分くらい前からです。寝ようと思って横になったら、突然」

「熱はありますか?」

「いえ」と言って首を横に振る。「平熱でした」

「しかし、汗をかいている」バインダーから視線を上げて、ちらりと僕の顔を見る。「エアコンは付けていましたか?」

「付けていました。暑かったので」

 しばし沈黙。さらさらと紙の上をペン先が滑る音が聞こえる。「ここからは確認なんですが」枕元の隊員が沈黙を破った。「あなたのお名前を聞かせていただけますか?」

「家原兼一です」

「生年月日は?」

「二〇〇〇年の九月一四日」

「平成で言うと?」

「一二年です」

「歳は幾つですか?」

「一八歳です」

「大学生?」

「はい。一回生です」

「どこに通ってます?」

「京都大学です」仰向けで受け答えするのは少し苦しくて、思わず咳払いしてしまう。長椅子に腰かけた隊員の眉がピクリと動いたような気がした。

「今が何時かわかりますか?」対照的に、枕元の隊員は平然としている。

「十二時より少し前だと思います」通話を切った時、携帯の画面には十一時五十五分と表示されていた。「もしかしたら、十二時を過ぎているかもしれません」

「持病などは何か?」

「三年前に喘息を発症したことがあります。それ以降は特に」

「喘息ですか」ほんの少しだけ、声音が変わった。「常用している薬などは?」

「今はありません」

「かかりつけの医院などはありますか?」

 首を横に振る。「こっちに越してきて、まだ一年も経っていませんし」

「ご出身はどちらです?」

「岐阜県です。中津川市」

「以前、喘息を発症した時はどちらの病院に行かれました?」

「中津川記念病院とか、そういう名前だったと思います。あんまりちゃんとは覚えていません」

 枕元から長椅子へと視線が送られた。

「服をまくってください」と長椅子の隊員が声をかける。その手には聴診器が握られていた。言葉に随い、寝間着をまくるとひんやりとした感覚が胸のあたりに押し当てられた。「深呼吸をお願いします」

 再び沈黙。聴診器は胸の三点あたりに押し当てられた後、脇腹のあたりに移動した。「ありがとうございます」そう言って、長椅子の隊員は服を下ろした。「喘鳴なし」と枕元に声をかける。

 枕元の隊員はふん、と鼻を鳴らした。「家原さん」と呼びかける声には少し呆れが含まれているように思えた。「血圧も呼吸も体温も、問題はないようですな。先程咳をしていましたが、咳はいつごろから?」

 予想していない質問だった。「息が苦しくなるちょっと前だったと思います。十分くらい」

「頻繁にでるようになった、と?」

 頻繁、というのがどの程度を指すのか、判断に困った。けれど、ここでは肯定する方がよいと思った。何か異常な点が無ければ、彼らも納得しないだろう。「ええ」といって首を縦に振る。

「そうですか」と言って、彼は僕に保険証を返した。焦っている様子は少しもない。「ここからなら、京大病院に行くのが妥当でしょうな。ただね、病院に行ったところで、やれることは我々と大差ありません。採血くらいはするかもしれませんが」枕元から、自分の顔がじっと覗き込まれる。「どうします?」

 どう、というのが何を指すのかわからず戸惑っていると、長椅子の方から言葉が継がれる。「つまりね、あなたは家で経過を観察する、ということもできると思うんですよ。我々としてはどちらでもいいんですが」声には苛立ちが混じっていた。

 それでも、僕は答えに窮した。救急車に来てもらって、どこにも向かわず帰ってもらう、というのは酷く失礼なように思えた。とはいえ、病院に運んでもらって、これ以上迷惑をかける、というのも気が引けた。できれば運んでもらいたかった。けれど、今まで口にした以上の口実を思いつくことはできなかった。

「近くに、ご親族の方は?」と枕元から声がかけられた。

「いえ」と首を横に振る。

「それは不安でしょうね」そう言葉が続けられたことで、助け舟が出されているのだと気付いた。「病院に行けば、多少安心できるでしょう」

「お願いします」僕はその言葉に飛びついた。安堵の気持ちを覚えてしまう。顔には出ていなかったと思う。けれど、声には滲んでいたようにも思えた。「すみません」と謝ったのは、安堵をごまかすためだった。罪悪感も手伝っていたから、その言葉がちょうどよかった。

「じゃ、出そうか」枕元の隊員はそう声をかけて、運転席へと向かった。

 一瞬、二人だけの時間が生まれた。「タクシーを呼ぼうとは思わなかったんですか?」長椅子から、声がかけられた。

「息が苦しかったものですから」とは苦しい言い訳だった。

「そうですか」という返事には軽蔑が混じっているように思われた。

「すみません」と付け加えたが、あまり意味のある行動ではなかった。サイレンの音が再び、鳴り響いた。車はゆっくりと動き出した。方向が一八〇度変わる。東大路通へと出るのだろう。仰向けの姿勢では天井のほかに見ることができるものなどなかった。かえってありがたい面もあった。長椅子へと目をやってしまったら、きっと沈黙の中で気まずい思いをしただろう。

 いや、もしかしたらその方がよかったのかもしれない。気まずい空気の中であれば、体調は悪化したかもしれないのだから。

 困ったことに、息苦しさはかなり和らいでしまっていた。車に揺られる中で、目を閉じればきっと眠ることさえ可能だっただろう。眠ってしまったら元も子もない。僕は目を開けたまま、明るい天井を眺めていた。時折、咳を交えたのは、視線を意識してのことだった。中身のない咳払いにはいかなる役割も果たすことはできなかっただろうけれど、多少気持ちが軽くはなった。

 緩やかな車の揺れは、京大病院までにしては少し長すぎるような気がした。実際は、十分もなかっただろう。

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)