日蝕の夏

鴉乃宗樹

 駅を出ると、あまりの日差しの強さに田崎光は顔の前に手をかざした。八月中旬の纏わりつく熱気が容赦なく田崎の体温を上げ、すぐに汗が噴き出す。目的地までは三キロ程あり、ろくに日陰も無い田舎の道をこれから三キロも歩くのかと、田崎はげんなりしてしまった。

「だから車の方が良いって言ったのに」

 藤倉が田崎の表情を見て言う。彼女はあまり暑がっていないようだった。田崎はまだ免許を取っておらず、しかし藤倉はあまりにも運転が下手で、身の危険を感じた田崎が嫌がったのだ。

「あれから一年経ったんだね」

 田崎が無言でいると、藤倉はしっとりと口にした。ここに来るまでにも、藤倉は何度もそう言って時間の流れに驚いていた。

「あの時は何というか幼かったね、私たち」

 あの時は? 一年で何が変わったというのだろう。確かに僕たちは滑稽な道化を演じていたかもしれないが、それは幼さなどではなく、根本に抱える弱さが発露していただけにすぎない。田崎は今の自分を見てそれが分かっていたし、笑顔を絶やさない隣人もきっとそうであるに違いなかった。

「何も変わらないですよ、今も」

 あえて挑発的に言うと、藤倉は「君は少し変わったよ」と笑って答えた。

 そこら中にいるがあまりどこで鳴いているのか分からない蝉たちの声が耳について、田崎は一年前に初めて図書室で見た、継村彩音の淡白な表情を思い出した。汗が田崎の指を伝って、ぽたりと地面に落ちた。

 

 

 

   *****

 

    一年前

 

     *

 

「聞いてるかあ、田崎」

 担任の吉岡がため息混じりに言う。苛ついているのではなく、同じ説明を二度もしたくないといった意味合いのねっとりした言い方だった。吉岡のそういう合理性は僕も理解していたが、どこか自分を非難するような、見下すような色を感じ取り、睨むように吉岡の目に視線をぶつけた。

「はい。聞いてます」

 吉岡は一瞬眉を顰めたが、また同じような口調で「まあいいんだけどさあ」と言いながら右のこめかみ辺りの髪の毛をくるくるいいじり始めた。

「全部自分に返ってくるだけだからなあ」

 髪をいじっていた手で頬杖を突き、吉岡は僕をじっと見つめる。表情は穏やかなのに、眼の奥が重い金属のように冷徹に見え、一瞬たじろいでしまうが、負けないようにと決して目は逸らさない。

 机には一学期の成績表とこれまでの模試の結果が並べられ、その横で吉岡のノートパソコンが僕の現状がどれくらいまずいかを解説してくれている。本日七月二十一日は高校三年生一学期最後の日であり、担任との二者面談の日であった。終業式が終わった後、空いた教室でそれは行われる。よほど成績の良い者でない限り進路について口酸っぱく言われてしまうこのイベントは多くの生徒にとって疎ましいもので、僕もその例外ではないが、その煩わしさが些事に思えてしまう程、頭の中は別のことでいっぱいになっていた。

「で、最近は勉強してるの?」

「してますよ」

「何時間?」

「それはまあ、ぼちぼちです」

「それは何もしてない奴のセリフだなあ」

 吉岡は脚を伸ばして椅子を斜めにゆらゆらさせる。吉岡の顔が遠ざかって、少しだけ真面目な雰囲気が解れた気がしたが、獲物に縄をかけるような調子で吉岡はまた喋り始めた。

「古典の補習」

「はい?」

「あるだろ? 三年生の」

「ありますけど、何ですか」

 入試の配点からして、吉岡の担当である古典はあまり重要な科目ではないし、補修も受けてはいない。

「A棟の三階でやってるんだよ、古典の補習はなあ」

 ――ああ、その話か。

「あそこの教室からはさあ、グラウンドを駆ける少年少女たちが良く見えるんだよ。ふと陸上部の方に目をやると、とびきり脚が早い男がいて、先生はいつも感心していてなあ。冷房の効いた室内で参考書と向き合うんじゃなくて、炎天下の中砂にまみれて努力する方を彼はわざわざ選んでいるのだなあ、と、いうふうに」

「熱心な生徒ですね、その人」

「そうかそうか、お前もそう思うか」

 勉強が嫌いな訳ではなかった。元々成績は良い方で、テストで頑張れば上位に食い込むこともあった。ただ今は、走らなければ自分を保てないという焦燥で他の物事には手が付かなかった。

 吉岡は不意ににやけた口元をピタリと閉じ、椅子をゆらゆらさせるのを止めて、両肘を机について掌を組み、顔を僕の方に近付ける。目がいつもより見開かれて威圧的だ。これはキツいことを言う顔だなと瞬時に悟る。

「何にもならないからな、それ。どれだけ速く走っても現実は追いついてくる。何となく生きるな。行動に目的を持て。な? お前にとってその時間が本当に必要なのか、きちんと確かめて過ごせ」

 そんな言葉で揺さぶられる僕じゃない――はずだったけれど、昨日の出来事は思いのほか心の壁を腐らせていたようで、吉岡の言葉はあまりにもすんなりと胸の奥の臓物に突き刺ささってしまった。

「ぼうっとしてると何者にも成れないぞ」

 歯を食いしばり腹に力を込めて言葉が入り込まないように必死になるが、苦いガスがどこかの臓器から漏れ出していくのを止めようがなかった。吉岡を強く睨んでみても、それが蛙の唯一の抵抗手段だと吉岡は分かっていて、顔色一つ変えない。

しばらく、張り詰めた沈黙が続いた。

「僕だって色々考えてます」

 そうだ、ぼうっとしているわけじゃない。走ることは僕にとって必要な時間だ。こいつは、こいつらはそうしたことを分からずに決めつけてくる。

「そうか」

 あっけらかんと吉岡は言ったが、その目がいっそう鋭くなるのを見逃さなかった。

「で、何で藤倉瞳を殴った」

 

    ***

 

『第4レーン***高校、タザキコウくん』

 アナウンスの声が響き渡り、スタンドの部員たちの歓声が湧く。スタンド全体に向けて深々と礼をすると沢山の知った声が僕の名前を叫ぶのが聞こえ、恥ずかしさと誇らしさが同時に込み上げてきた。何度か軽くジャンプして身体を刺激しつつ、100メートル先のゴール地点を睨む。といっても、トラックの一周は400メートルなので、ゴールの先はレーンがカーブして続くだけで、ゴールテープとその横に大型のタイマーがある以外、赤いタータンの地面が広がるだけの殺風景な場所だ。ただ今日は気温も湿度も高く、景色が僅かにゆらいで見える。暑さと緊張も相まって軽く眩暈を覚えた。

 男子100メートル走決勝の選手紹介が完了すると、各々が行っていたウォーミングアップを止め、スターター付近に戻る。しゃがみ込んでタータンに手をつくと、ざらついたゴムの感触と日光による熱が神経を奮わせた。もう一度ゴールを見据える。難しいことは無い、全力で走るだけだ。

『オンユアマーク』

 スターターに両足を合わせる。左右からもカチャリという金属音が聞こえ、これがレースであることを再び意識する。選手たちと、会場全体の緊張が肌で伝わる。だが──難しいことは無い。ピストルが鳴ったらスターターを全力で蹴る、それだけのことだ。

『セット』

 かがんだ状態から臀部を上げてスタートダッシュの体勢に移る。ざわついていた会場は静まり返り、自分の呼吸の音がいやに五月蠅く聞こえる。狩りに臨む獣のような心持で、この静寂を破るピストルの音をじっと待っている。

 

    ***

 

 舌を強く噛む。いつか聞かれるだろうということは分かっていた。

「殴ってはないですよ」

「殴りかかってただろ」

「それは、そう見えただけです」

「どうしてそう見えるようなことをした」

「遊びですよ、ただの」

 吉岡は一瞬たりとも視線を逸らさなかった。僕は耐えかねてほんの少し俯いてしまった。ノートパソコン上の不愉快なコメントが目に入る。

「瞳だって僕を糾弾してるわけじゃないんでしょう」

 歯が小刻みに鳴っていることに我ながら腹が立ったが、それに気付いた吉岡はそれ以上の言及をする気が無くなったようで、大きなため息を一つ吐く。

 吉岡がすっと顔を引いた。そろそろ面談が終わる時間だった。

「教師としては納得してないが、個人的にはなんでもいい、なんでも。勝手に解決してくれ。俺からは勉強しろとしか言わないよ」

 吉岡はノートパソコンや諸々の書類を纏めて立ちあがる。その拍子に手帳か何かに挟まっていた小さなメモ用紙がひらりと床に落ちたが、吉岡は気付いていないようだった。

「面談は田崎で最後だからもっと喋っていても良いんだけれども、非常に残念ながら予定があるもんで、今日はこれでおしまいね」

 吉岡の落としたメモ用紙を拾う。吉岡はもう教室の扉に手をかけるところで、それなりに距離がある。呼び止めてメモを渡そうかと思ったけれど、何となく気に食わないので反抗のつもりで気が付かなかったことにした。

「じゃ、最後の夏休みは有意義に」

 扉がガラガラと開かれると、途端に夏の喧騒が飛び込んでくる。吉岡は廊下の暑さに軽く悪態をついて、そのまま去っていった。

 吉岡のメモを見ると。今日の日付と「継村」と二文字、その下にどこかの住所が書かれていた。地名だろうか。僕はそれを四つ折りにしてポケットに仕舞った。

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)