亡父と毒花

江利川靖士

序幕

 

 八坂春三は生きている可能性がある――。

 その調査報告を月野詩音が受けたのは、二〇一八年八月十六日、蝉の声とともに日差しの降り注ぐバス停前でのことだった。

 詩音がつい今しがたまで乗っていたバスは、視界の果てまで一直線に伸びる道路を緑の照る山に突き進むように走り去っていった。詩音は人目を憚るようにあたりを見渡した。遠景には山々が、すぐ近くには畑と防風林があるのみで、人の姿はどこにもない。

『そもそも春三は死体の損壊が相当激しかったそうだ。春三が死んだという事故の詳細についてはもう知ってるか?』

 電話の向こうの男――探偵の北海深仁は面白がるように尋ねた。

「さわりだけなら」と詩音は答えた。容赦のない日差しから逃れようと、スーツケースを引きながら防風林に向け歩き出す。「勤務中に土砂崩れにあって亡くなった――ほかに同僚が三人亡くなっているそうですね。知っているのはそれくらいです」

『なんだ、本当にさわりだけしか知らねえんだな』

「北海さんがどうせ要領よくまとめてくれるだろうと期待してましたから。もう十四年前の事件でネットの記事は探しにくいですし、図書館で軽く新聞記事を調べてみたくらいですよ。図書館っていうのは、高校生のあたしにとっては夏休みの宿題をしにいくとこなんです」

『白々しいことを言うなあ。……なら改めて説明しておくか。

 八坂春三が勤めていたのは広澄酒造という地元の酒造メーカーだった。事故が起きたのは十月二十日。その日、八坂春三は三人の同僚とともに、新しい酒蔵の建設候補地の視察に山の中へと車で入っていった。事故当日自体は曇天だったものの、数日前から断続的に大雨が降っていて、その影響で視察中突然に土砂崩れが発生した。春三を含む四人は土砂に巻き込まれ全員が死体で発見された。――石礫を大量に含む土砂によって死体は大いに傷つけられていた。建設会社から貸与された同じ作業着を全員が着ていたこともあって、当初はどの死体が誰なのか、判別もつかない状態だったようだ』

「どれが誰だかわからない……というと、つまり、顔も大きく損壊していたと?」

『ああ、そういうことになる。ただ、その中でも春三の死体は比較的早く判別がついたらしい』

「といいますと」

『春三の左肘には、大きな古傷があったんだよ』

 北海は端的に言った。詩音はつい立ち止まる。風に揺れる道端の防風林の木陰に入り、額の汗を腕で拭って話の続きを待つ。

『どうやら少年時代、春三は肘に大怪我を負った経験があるらしい。そのことを春三の妻が証言すると、遺体の一つに証言通りの古傷が残っていた。さらにはその遺体は作業着のポケットの中に春三の携帯電話を入れていた。無論、血液型などの鑑定もあったものの、そういうわけで春三だけは一足先に身元の確認が取れたわけだ』

「古傷……。なるほど、あれのことですか」

『なんだ、知ってるのか。怪我のこと』

「ええ、ちょっと前に聞きまして。亡くなったほかの同僚の方はどうなんです?」

『血液型が同じだったとか、体格が似ていたということがあって、残りの三人の判別は困難を伴ったそうだ。といっても、現代医学の前じゃその判別もじきについたがな。……さておき、遺体の身元さえわかればあとは通常の事故と変わらない。春三の遺体は八坂家に運ばれ、整形さながらのエンバーミング処理を施され、葬儀が挙げられ、それで終わりだ。ほかに特筆することがあるとすれば広澄酒造からの見舞金、それに保険金は結構なものだったらしいことくらいか』

「今保険金とおっしゃいましたけど、一応訊きましょうか。その土砂崩れ、人為的に発生させられた可能性はありますか?」

『ない』北海は即答した。『人為的に土砂崩れを発生させようとすればなんらかの痕跡が残る。警察の調査でそのような痕跡はないことが判明してる。そもそも保険金の受取人である春三の妻は別に金銭的に不自由していない』

「ま、あの八坂家ですからね。それはそうでしょう」

 詩音はスマートフォンを持ち替え軽く顎を撫でる。

「では、八坂春三――八坂花の実父は、確実に死亡した、と考えていいですか?」

『――常識的には、そうなるな』

「含みのある言い方っすねえ」詩音はハスキーな声色で言った。「あたしは常識を喋ってほしくて訊いたわけじゃないですよ。北海さんの判断を尋ねてるんです」

『だったらノーと答えなくちゃいけねえな』北海は電話の奥で低い笑いを漏らした。『結局、決定的な証拠となったのは古傷が左肘にあったということでしかないし、その古傷さえ土砂で損傷してたらしい。つまり常識的には考えづらい話だが――もしも似たような傷跡を持つ男がいたとすれば、死体の入れ替わりが発生していた可能性があるわけだよな?』

 

 

 

「私が父と血が繋がっていないこと、先輩はご存知でしたっけ?」

 私の問いに、それまで退屈げにスマートフォンをスワイプしていた詩音先輩が顔を上げた。眼鏡の奥、何を考えているのか容易に読めない猫科めいた目を瞬かせ、先輩は「いんや」と口にする。「寡聞にして知らないね。初耳」

「そうですよね」

 私は目をつぶり、小さく息を吐き出した。

「何、ひょっとして有名な話なの? あたし、八坂の個人情報ならあらかた押さえてるはずなんだけど……。悔しいね、あたしの情報網もまだまだ脆弱ってことかな」

「いえ、そんな」私は慌てた。「知らなくて当たり前です。なにしろ私がこの話をしたの、先輩が初めてですから」

「……いや、いやいやいや」先輩は呆れ顔になった。「だったら知ってるはずないじゃない。何、『ご存知でしたっけ』って。ご存知なわけないでしょ」

「それはほら……、話の枕といいますか」

「ふうん……、でもいいの? そんな話、いきなりここでしちゃって」先輩は視線で周囲を示す。「言ったのが初めてっていうことは、今まで何年も秘密にしてきたってことでしょ? そんな重大発表、雑談が途切れたからなんて理由でするような性質のものじゃないと思うんだけど」

 先輩は、はてな、とばかりに首を傾げてみせる。

 私たちが今いるのはカフェテラスの一席だった。私と先輩は、パラソル付きの円形のテーブルに、お互い斜めになるようにして着いていた。もっとも、ホテルや喫茶店などの小洒落たカフェテラスではない。カフェテラスとは名ばかり、高校の食堂の窓の外に設えられたごく狭いテラス席のスペースである。

 つい先ほどまで、生徒会会長である先輩と会計である私は文化祭の実行委員会に出席していた。長きに渡る話し合いの末、私たちは学級委員や各部の部長相手に紛糾する議論をどうにかまとめ上げた。委員会を終えて今はつかの間の休憩中、ほっと一息をついている最中なのだ。

「雑談が途切れたから、と言うより、雑談が途切れるのを見計らって、ですね。ずっと先輩に言いたかったものですから」

「ふうん?」

「それに、そもそも何年も秘密にしてきたわけでもありません。私自身、今の父親が実父ではないと知ったのはつい数ヶ月前のことなんです」

「あ、そうなの。数ヶ月前というとあれかな、高校入学と同時に教えられたっていうこと?」

「そうというより中学卒業と同時にでしょうか。ありがちな話ですよ。義務教育が終わったからもう教えてもいい頃合いだろう、ということで」

 あの日抱いた感情を、私は未だ名付けることができていない。夜、風呂に行こうとリビングを通った私を両親は呼び止めた。夕食時からなんだかそわそわした素振りを見せていた両親は、緊張した声で私にダイニングテーブルに着くよう促すと、しばしの間雑談をしてからおもむろに本題を切り出した。

 ――花。実は花は、お父さんの本当の子供じゃないんだ。

 両親の打ち明け話は父のそんな言葉から始まった。話を聞いている最中、私は驚くやら困惑するやら、かなり混乱してしまったけれど、要約すれば話はごく簡単だった。

 母はかつて清木春三という男と恋に落ち、結婚して私という子を授かった。しかし春三は私が生まれた少しあと、勤務中に発生した事故によって他界してしまう。事故から数年後、私の記憶がまだ覚束ないような幼い時期に母は新しい男と再婚した。その男が今の父で、私はこれまでそれを実の父と教えられ育てられてきたというわけだ。

 最初は流石に受け入れがたく呆然としたような反応になってしまった。しかしリビングを辞し、お風呂に入っているうちには色々と腑に落ちるような感覚になっていた。昔から父と顔が似ていないなとは思っていたし……。

「別に八坂のお母さんを悪く言うわけじゃないけどさ」と先輩は言った。「八坂の記憶が覚束ないころってことは、再婚結構早くない? 普通は世間の目を気にしてもう少し待つと思うんだけど――って、あ、そうか」そこで詩音先輩は合点したように「そっか、八坂の実家は大きいもんね」

「……ええ、恥ずかしながら」私は軽く目を伏せた。「婿探しには事欠きませんから」

 自分で言うのもなんだけれど、私の実家である八坂家はそれなりに家柄がいい。現在は仙台に居を構える八坂家だが、古くは京都の商家にその源流を持っていて、親戚には企業の経営者が散見される。今は亡き私の祖父(母の父)もかつては経済界の重鎮だったらしいと聞くし……。だからそんな家系の子女ともなれば、結婚はもはや個人の問題に留まらない。

「政略結婚かあ……。庶民には縁のない話題だね」

「もちろん、八坂家が母に強制して再婚させたというわけではないようでした。私を育てるうえでは父親がいたほうがいいという判断も母にはあったみたいですし……。ただ、背景にそんな事情があったことはたしかでしょう」

 付け加えれば、仮に百パーセントの政略結婚だとしても私は別に構わない。そんなことをいちいち気にするようなおぼこな人間では私はない。

「……で、たしかに意外な話だったけどさ、それをあたしに言いたかった理由っていうのは何なの? 自分一人で抱えているのがつらかった――とかじゃないよね、八坂なら」

「そうですね。実のところ、今までの話は単なる前ふりなんです。――ここから奇妙な話になるんですよ」

「奇妙ね。というと?」

「死んだはずの父から、半年前、手紙が届いていたんです」

「……ほう」

 先輩は興味深げに返すと、テーブルに肘を立て頬を片手で支えた。

 

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)