イベリスを喰らう

久遠寺悠

  これはわたしの物語ではありません。これはアリスという少女の物語です。アリスは母の伯母でした。母は小さい頃から伯母になついていたらしく、幼いわたしは母から二人の思い出を聞いては、わたしの知らない母を知るアリスという人間に嫉妬したものです。

 アリスは亡くなる直前に、母にとある手記を渡しました。母の遺品を整理していたわたしは、昨日、その手記を見つけたのです。だからこれは、アリスの物語なのです。 

 

 浪人はするもんじゃない。高校を卒業してから一年間、世界との直接的な繋がりを断ちながらも、インスタグラムを覗いては彼女が変わりゆくさまを見なきゃならなかったからである。別に本人が変わったわけではないことくらいわかっているけど。あくまで私が見ていたのはリリーの一部で、環境が変わればまた違う一面が見えてくるのは当然で、というかそもそも当時からして特別親しかったわけでもないし。ちなみに今日は入学式だった。と、申し訳程度に書き添えておく。

 

 せっかくリリーの大学からそこそこ近めのところへ進学してこれからいざ会い放題! と思っていたのに、画面の奥からの情報だけで存在を確認していた一年間が思いの外大きかったらしい。私の中のリリー像がぼやけてきている。私は私の中のリリーに焦がれているだけで生身のリリーを見てはいない。実に身勝手な話だ。リリーは今でも私の尊敬するリリーであることに変わりはないのに、私はそのリリーを、今確かに生きているリリーを、見ることができない。情報の洪水から違う一面が見えてきたことで自分の中のリリー像が揺らいで、それを受け入れられないせいでリリーと仲良くなりたいという思いもしぼんできた。

 

 久々にリリーに連絡をしてみた。リリーの誕生日以来だ。来週通話をすることになってしまった。こちらから持ち掛けたくせにもう既に憂鬱になっている。ただただ相手のことを考えているあいだは見切りもつけられそうなのに、いざ本人と接してしまうとすべての思考が飛んでしあわせに身をゆだねてしまう。こんなことではよろしくない。人間を自覚する者は自律の生き物なのである。

 

 一緒に×××へ行くことになった。どうして? どうしてもこうしてもない。自分から持ち掛けた。日帰りとはいえこんなに長時間二人きりで過ごすのは初めてだ。なるようになればいいと思う。その旅行を楽しみにしている自分がいるのも確かなのだ。

 

 

 

 雨が窓を強く打ち、ぶつかった雨水は次から次へと滴り落ちていく。その様子を窓にもたれながらぼうっと見つめるアリスを見つけ、リリーは席へと向かった。

「おまたせ。頼まれていた鯖寿司は無事、買えました」

 リリーが声をかけつつ席に着くと、アリスはぱっと顔を輝かせて振り向いた。

「ありがとう。結局間に合ったし、これなら二人で買いに行けたよねえ」

「そういっていざ買いに行ったら小一時間は決められないのがアリスでしょ。これくらいで申し訳なさそうにしないでいいから」

 そう言いながらリリーが少し早めの朝ご飯を並べていると、アナウンスと共に新幹線のドアが閉まる音がした。

 列車がゆるやかに走りだし、その圧を感じながらアリスは少し倒した座席に身をゆだねた。平日の早朝である。車内の人影はまばらだ。幸い後ろに人はいない。

「予報では晴れだったよねえ」

「見事に降られたね。でも私、雨は好きだよ」

「私も好きだけど……。リリーは、どうして雨が好きなの?」

 再び沈みかけたアリスは、リリーの答えに安堵したような顔を見せ、問いかけた。

「だって――」

「ああごめん。やっぱりいいや、あとで聞かせて」

「それもそうだ。まずは目の前のお弁当!」

 リリーはぱん、と手を叩くと、包装の上部を割いておしぼりを取り出した。アリスもそれにならうと、入念に手を拭った。こういうとき、のちに口を拭うためになんとなく片面を残してしまうが、きっと意味のない行為なのだろう。アリスは鯖寿司の蓋を開けながら、リリーの手元を覗いた。

「あれ、リリーも鯖寿司にしたの」

「うん。なんかアリスの分を手に取ったら、修学旅行のことを思い出しちゃって、私もこれにしようって。食べたよね」

「うん。私、唯一食べられるお寿司がこれだから、印象に残ってる。こういうときだけ運がいいんだよ」

 二人は揃って「いただきます」と唱えると、寿司をひとつ、口へと運んだ。きちんと箸を使うリリーに反して、アリスは素手で頬張っている。

「鯖、好きなの」

「うん。なんでこんなにおいしいかね」

「あはは。よりによってなんで鯖なのさ。もっと他にクセのないおいしい寿司はたくさんあるでしょ。たとえば、中トロとか」

 中トロとは、まぐろのことである。アリスに寿司を食べる者としての心得が不足していると感じたらしい。リリーは、そんな基本的なことから始まり、旬やおいしい食べ方、はては自作のキャラクター「とろみちゃん」(「み」はミディアムからきているらしい)に至るまで、中トロの魅力をとうとうと語りだした。

「え、中トロってクセがないの。というか、何この圧……」

「まあまあ。私の中トロ談話はこれくらいにして。アリスはなんで鯖が好きなのよ」

「これくらい、で留めておける濃度ではなかったけど。うーん、好きな理由を挙げようとしてもどれもしっくりこないや。どれも後付けでしかないというか。それに、リリーはもっと他においしいお寿司があるって言ったけど、私にとってはそれが鯖だったんだよ。他においしいお寿司がたくさんあるのだとしても、私が特別だと思ったものが、特別になるの。――って、そんなことはどうでもいいよ。見て、もう富士山」

「嘘、どこ。見えないよ」

 雨は相変わらず激しく窓にぶつかり、風にあおられては消えていく。本来であれば顔を出した太陽が徐々に世界を照らし、底抜けに明るい秋の空があらわれる頃合いである。しかし、今日この時間においては、空に浮かぶ得体の知れないあのもくもくに軍配が上がった。列車の窓からは、あのもくもくの、陽の光を殆ど遮ってしまうほどの勢力を、力なく想像することしかできない。そして、そのような空模様においては、景色は白銀色に烟り、富士の山など確認できようはずもない。せいぜいなにやら立派なシルエットをそれと拝むのが関の山である。

「いや、適当なこと言った」

「ちょっと」

「でも、時間的にはもう見えていてもおかしくないの。ほら、そう言われるとあれが富士山に見えてくるでしょ」

 アリスの指さす先をあきれて眺めながら、リリーは話を続けた。

「まあ、そう見えなくもないのかな。ところで、さっきの話」

「何のこと」

「鯖の話だよ」

「それはもういいでしょ。雨の話にしようよ。ほら、まだこんなに降ってるし、さっきは遮っちゃったし」

「二人とも雨が好きって話ね。アリスの理由から聞きたいなあ」

「なんで私からなの。照れくさいからリリーのから聞かせてよ」

「先陣っていうのは、交互に切っていくものなの。寿司は私からだったでしょ」

「あれはリリーが勝手に語り始めたじゃん。――まあ、わかったよ」

 今度は逃げられないと悟ったのか、アリスは抵抗をやめて話し始めた。

 窓の外の灰色の奔流が、こちらにまで押し寄せる。

「雨が降るとさ、この世界が全部、ぼんやりとうす暗い靄ですっぽり覆われるような気がしない? その湿っぽさが肌に合うの。雨の温度はずっと感じていたい。不安定な自分を包んでくれているような感覚に、安心する。木を隠すなら、っていう、あれ」

「え、何。最後ので茶化したつもりなの。語り始めたら、正気に戻ってはいけませんよ」

 言いながら、リリーは筋張ったうすい指をぴん、と立てると、こめかみに添えた。

「晴れた日はこころがどこまでも澄んでいくかのような心地よさがあると思っているんだけど、アリスが言うのは晴れが好きな人にとってのそういうことなんだろうね。じめじめしているところも含めて、素敵。髪色とも合ってる」

「何、急に罵倒? リリーこそ茶化そうとしてない?」

「あはは、本心。その、墨汁もかくや、な髪も、落ち着いていて魅力的だよ」

「やっぱり馬鹿にしてる! そういうリリーは、どうして雨が好きなの」

 アリスの問いかけに、リリーは一瞬眉を下げてから口を開いた。

「私のは、つまんないよ。匂いが落ち着くとか、雨で色を変える建築物が美しいとか、そんなん。建築材料によって染まり方が変わるのも面白いよ。でも、アリスの理由を聞いたあとだと、すごくどうでもいいことみたいで恥ずかしいわ」

「どこが! 雨の尊さを讃える言葉に貴賎なし、って言葉もあるでしょ。それに、仮に本当に『くだらない』ものだったとして、だからなんなのよ。そんなこと言ってくるやつがいたら、私が許しておかない」

 見えないシートベルトに抑えられながら両こぶしを構えだしたアリスに、リリーは苦笑した。

「なんか、ありがと。まあでも、頭が痛くなるのは勘弁してほしい。生活どころじゃない」

「そうなのよねえ。びっくりするくらい動けなくなっちゃう。雨が好きという気持ちのみで無理矢理プラマイプラスにしているかんじ。人間の体調が晴れの日に崩れる仕様じゃなくて本当によかったと思ってる。晴れの日の気持ちはもう、ゾンビよ、ゾンビ。早く殺してくれ、っていう。苦しい状態が心地いいのが雨の日で、ただただ苦しいだけなのが、晴れの日」

「でも、私たちが晴れの日に身体を壊すつくりをしていたら、雨の日にここまで惹かれていたのか、わからないね」

「それは嫌だなあ。ほんと、曖昧なことばかりだよ」

「まあ、そうやって不安定だからこそ、より強い気持ちもうまれるんでしょ。そういうことにしようよ」

「そうだね。というか、今、大丈夫なの。頭。いや、ここでいう頭とは、決してそのリリー様の叡智の結晶が詰まった箱のことではなくて。そもそも『大丈夫』というのも――」

「何慌ててるの。大丈夫、伝わってるって。今日はなんか平気だし、実はさっき一応痛み止めも飲んだ。心配ありがとう」

「なら、いいんだけど」

 言い終えるとアリスは、ようやく落ち着いたのか、静かに座席にもたれた。

 気がつけば、桐箱を模した鯖寿司のパッケージも、もう空になっていた。会話の凪の中、雨だけが休まずにガラスを叩き続ける。その音に耳をすまし、これから向かう先へと思いを馳せる。

 

「ねえリリー、傘、持ってきてたりする……?」

 おずおずと口を開いたアリスの方を向いたリリーは、

「持ってるよ、折りたたみなら。もしかしてアリス、傘持ってない?」

 そう言いながら立ち上がり、荷物棚から光沢のない黒いリュックを下ろした。そして、用意周到なリリーらしい大きさながらも繊細さを失っていないそのリュックから、すばやく、傘を一本取り出した。

「一緒に入る? 多分すぐやむし」

「いいの? ごめんね、ありがとう。私めがその傘、お持ちします」

「いいって。別に大したことではないよ。それに、私の方が身長、高いからね」

「おっと、思わぬ流れ弾。それでは、よろしくお願いします」

 忙しく百面相を繰り広げていたアリスは、少しかしこまって上半身を倒してみせた。

「もしかして、新幹線に乗ってすぐに雨の話を逸らしたのって、傘がなかったから?」

「移動していればすぐやむと思ったんだけどねえ。そう甘くはなかった」

 アリスは肩を落とすと、前方で光る点の集合に顔を向け、その流れをぼんやりと視界におさめた。リリーはそんなアリスを一瞥したのち、やはりそれにならった。

 まもなく列車が目的の駅へ到着するらしい。そう伝える静かなアナウンスが、乗客を高揚させる。あるいは、高揚するような目的を有している乗客はわずかしかいないのかもしれない。

「ねーえ、アリス」

「なあに」

 依然としてぼんやりと前を見やりながら、二人はナマケモノになったかのような気分で、口を開いた。

「帰り、私だけ新幹線で、本当にいいの?」

「うん」

「うん、て。どうせ数時間しか変わらないのにアリスひとり深夜バスって、なんか心配」

「その数時間が重要なのよ。お金も抑えたいしね。それに、リリーは明日、講義があるでしょ。おさぼりさんは私ひとりでじゅうぶんです」

「え、アリス、明日全休じゃないの」

「そりゃまるっと二日も休みなわけないよ。それじゃ留年しちゃう。リリーだって、今日は休講だから、こうして予定を入れられたわけだし。ともかく、問題ないよ。心配してくれてありがとう。むしろ、私から誘っておいてリリーをひとりで帰してごめんね」

「それはいいんだよ。ひとり旅自体は好きだし」

「ふふ、私も」

「まあ、アリスがいいならいいよ。でも、気が変わったらすぐに言ってね。一緒に帰ろう」

「ありがとう。あ、もう着くんじゃないかな」

 列車は、車内の喧騒を引き連れて、駅のプラットホームへと滑り込んだ。勢いこそ衰えたが、雨は細かくなって相も変わらず地上へと降り注いでいる。

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)