なんとまあ長きこの夜更け

紙月真魚

 0 手垢のついた悪夢

 

 映写技師。

 この夢を見たあとには、いつだってその言葉を連想する。ほとんど細部まで流れが固定された映像を前に、うす暗い映写室の中で、どこをどう切り取って編集したものか思案する自分の姿が、まず浮かぶ。埃と垢で薄汚れた服を着て、何日もその仕事にかまけている風態の、架空の自分の姿が。見飽きた悲劇を無感動なふりして眺め、どう受け取ったものか考えあぐねているその姿が。

 どうしたって、この映画の映写技師にはなることはできなかった。今に至るまで、この夢を編集できたためしがない。そして、はっと気がつく。都合のいい形で見ることのできない幻だから夢なのだ、と。心臓をぐっと縮める結末部のフィルム数センチを切り落とすことができれば、どんなにいいだろうか。しかしそれは不可能だった。探しまわっても、映写室の中にはハサミは存在しなかった。そもそも、映写機を止める権利すら持っていない。私は映写技師ではないからだ。

 第一、おかしな話ではないか。この夢のフィルムは、手持ちの記憶で構成された面白くもないドキュメンタリー作品なのだ。映像を編集するべき存在が被写体としてシアターに映るのは、話があべこべというものだろう。バスター・キートンが観れば、きっと苦笑いすることだろう。気分を害するかもしれない。

 そして残念なことに、この作品にはハリウッド調のブロックバスターめいた胸のすく展開はなく、後世まで引き継がれるような、なんらかの普遍的な真理が写しとられていることもなかった。

 夢は過去と悔恨で構成されていて、目覚めの朝を常にさいなむ。

 

 夢はいつも、高速道路を気分良く走るピックアップ・トラックの後部座席からの主観ショットで始まる。車窓から見える空は冗談のように青く澄み、あまり代わり映えのしない田舎街の風景を、旅先から届く絵葉書のように劇的なものに見せている。それは前列に座る二人にとっても同じなのだろう。楽しげな雰囲気で伝わるものがあった。助手席のステフがバスケットを開けて、スクランブル・エッグとレタスを挟んだサンドイッチを一つ寄越してくる。傍目からも、昨日の無理の名残が見えたのだろう。疲れた体にマスタードの味つけがよく染みた。こうなっては番犬も形無しね。どちらかと言えば野犬のように飲み込む勢いで食べる私を、彼女は古いあだ名で呼び、屈託なく笑った。市との長い争議の末、つい先日ようやくパートナーとの婚姻が認められたからこその笑み。四十を過ぎた大人ばかりでさしてあてのないドライブに行こうという計画が持ち上がったのは、ささやかながら彼女を祝福する狙いも含まれていた。

 おいおい、頼むから俺の分も残しておいてくれよ、と運転席のレイがおどけた調子で言う。私がそれほど強欲でなく、ステフが無計画な人間でないことも、彼はよく知っている。冗談が好きで、かつて同期だったころの苛烈な仕事ぶりを考えると、軽口を叩く彼はまるきり別の人間のように感じることがる。だが、警察官はまちがいなく彼の天職だった。

 こんな穏やかな日は久しぶりだよ。きっと俺が犯罪者をかたっぱしから捕まえて、ここいらに悪いやつがいなくなったからだろうな。片手で器用にサンドイッチを齧りながら、運転手の軽口は続く。私もステフも、レイが数日前まで凶悪な強盗犯の行方を懸命に追っていたことを知っている。老婦人をちゃちな金と口封じのために殴り殺したその男を、気の遠くなるような長い追跡の末に逮捕し、昨日まで報告書作りにかかりきりになっていたことも。

 ひどく風の強い日だった。強い向かい風が車体によって切り裂かれ、唸るような音が絶え間なく鳴りつづける。西部劇のタンブルウィードのように、高速道路に捨てられた煙草やポテトチップスの空袋が舞っていた。

 こうやってつまみ食いを繰り返してると、外に出た時バスケットが吹っ飛んじまいそうだな。ま、いいさ。そうなったら俺とヴィドックで走って追いかければいいんだから。それに、行先の湖は林で取り囲まれてるんだ。どうしたって、そう強い風にはならないだろう……

 待てよ。もう現職の頃ほど走れないんだ。走るなら一人で走ってくれ。私は口を挟んだ。半分は冗談、半分は本心だった。

 探偵こそ体力仕事だろう。そもそも、お前は警察学校の頃から運動科目はからきしだったじゃないか。あの地獄みたいなマラソンだって、白目むいて三番目にへばったんだからな。

 そして五番目がお前だったそうだな、と私のカウンター。

 ステフは声を上げて笑った。レイも苦笑いで返した。

 画面端の窓の外で、強い向かい風が、隣車線を走る大型トラックの荷台ロープの固定を数本吹っ飛ばした。これは後になって思い出したことだ。当時、何が起こったかを正確に把握することはできなかった。緑色のシートがひらりとめくれあがる。積まれていたヒノキの丸太が幾本もバランスを失って荷台から転がり落ち、車の目前に迫ってくる。

 雑談の最中、眼前に広がるその一瞬の光景を、私は呆けたように眺めている。とても現実とは思えない出来事を飲み込むことができない。反応することすら。だが、とっさに反応することができたとして、一体何ができたろうか?

 丸太の一つがフロントガラスを突き破って車内に侵入する。断面が鐘つき棒のようにまともにレイモンドの頭と接触したのが見えた。ガラスが飛来し、防衛本能に従って反射的に目を閉じる。かん高い悲鳴。ステフだ。轟音は一瞬遅れてやってきた。同じく対応に遅れた後続車に追突され、背中から突き上げるような衝撃がくる。いくつものクラクションの音が、次第に小さくなっていく。悲鳴がすでに聞こえてこないことに気がつく前に気を失ったのは、不幸中の幸いと言えるのだろうか?

 答えは今も出せていない。

 溶暗。

 

 後に続く出来事は、夢のなかで描かれることはない。けれど、夢から醒めるたび、否が応でも思い出さざるをえなかった。病室での目覚め、それに続く、不連続な時間経過に関するしばらくの混乱(どうしてピックアップ・トラックの後部座席ではなく、病室のベッドに横たわっているんだ?)。昏睡しているあいだに、沈痛な面持ちをした見舞客から二人の葬儀がとうに終わったことを告げられる、あのどうしようもない瞬間。長いリハビリ期間。うんざりするようほど手間のかかった、運送会社との長い長い賠償請求の手続きに関する冷ややかなやりとり。何かに敗けた覚えはさらさらないが、敗戦処理を黙々とこなすようような日々がしばらく続いた。

 数年の空白を過ぎて、久しぶりに事務所を開けると、舞いあがる埃にくしゃみが出た。

 探偵という仕事は、信頼をこまめに培うことで、ようやく食いぶちを稼げるようになる。浮気調査や警備仕事、迷子犬の捜索といったような、持ち込まれた仕事の大小を選ばないことはもちろん、依頼者だけでなく、同業者とのつながりも大切にしないといけない。時には他社のヘルプに向かうことだってある。

 しかしそれ以前にどんな職業であれ、一年以上もの間、開店休業状態のまま何も手を打たなければ、信用は地に落ちる。見えない貯金はとうに尽きていると言ってよかった。

 さしたる趣味もない人生を送ってきた唯一のリターンとして、金銭的にしばらくの余裕はあった。だが、何から手をつけたらいいのか皆目見当がつかない。

 とりあえず明日は掃除から始めよう。後のことはそれから考えればいい。溜まっているものは埃だけではないのだ。半ば諦めに近い決心をして眠りについた日から、ずっとこの悪夢を見続けている。

 

1 早朝の死

 

 設定したアラームよりいつも数分だけ早く目が覚めるのは、悪夢のせいばかりではなかった。五十を過ぎてようやく、あの責めるような機械音が怖いのだと認めることができるようになったのは、ささやかな成長と言えるかもしれない。根が小心者なのだろう。単に、眠る体力すら無くなるほど老いつつあるだけなのかもしれないが。

 日の出る前、薄闇に満たされた部屋を歩き回るのは慣れたものだった。部屋のライトをつけるためのルートを通りながら、ポットの加熱ボタンを押し、ラジオを点け、戸棚からコーヒー粉の缶を取り出したところで、ようやく失敗に気がつく。持ち上げたスチール缶は予想外に軽く、数粒の粉が底をカラカラと叩く音がした。迂闊だった。そういえば、しばらく買い足した記憶がない。

 『動く標的』のなかでポール・ニューマンがやったように、くず箱から使いさしのフィルターを拾い上げて再利用するわけにもいくまい。気の抜けた朝が始まろうとしていた。ラジオのニュース・キャスターは、再選確実と目される街の現市長エドワード・ハケットについて語っている。好ましげに立ちふるまう、好ましからざる人物。苦りきった口調で語られるその人物評については、おおむね同意できる。

 だが、この場において問題なのは、好ましからざるハケット候補よりも、朝のコーヒーが無いことだ。私は模範的市民ではなく、コーヒー中毒者だった。

 窓を開けると、冬の予感をしんしんと感じるような秋の冷気が入りこんでくる。

この時間は雀と、時折モッキンバードの鳴き声が聞こえるぐらいだ。夕方を過ぎればうるさいぐらいのクラクションも聞こえはしない。思い出したように目下の通りをトラックが駆け抜けていく。街はまだ眠っていた。

 警察時代にコーヒー中毒になって以降、朝の一杯がなければ、どうにも一日がはじまった気がしないタチなのだ。その傾向は、しばらく前から始めた禁煙でいっそう酷くなった。ため息をつくと、ラジオを切り、ポットの加熱を止める。外を歩ける服装に着替え、医師に処方されていた目薬をさし、ドアに立てかけた杖をとって外に出る。こんな身体になる前は、さほど意識することもなかった鉄骨の長い螺旋階段を、ゆっくりとした足取りで降りていく。北国の流氷めいた手すりの冷たさは、冬を呪う理由としては十分だった。

 

 グリーンリーフ自然公園という、どうにも同義反復の響きがあるような名前を冠したその巨大な公園は、アパートから歩いて数分のところにあった。何もランニング・シューズで散歩する、健康志向の人間にとつぜん転向しに来たわけじゃない。目的は公園の東口に止められた、平日はいつもこの時間帯から開店しているワゴンショップにあった。

 カーラは私の姿を認めると、ハイ、と車内から声をかけてきた。

「ずいぶん早いのね。まだ下ごしらえの途中だから、大したものは出せないわよ」

「いいんだ。コーヒーを切らしていてね」

「それは一大事」彼女がいたずらっ子のように微笑むさまは、車外から姿が見えなくても容易に想像できる。「ご注文はいかがいたしますか、お客様?」

「ブラック・コーヒー、レギュラーで」

「かしこまりました。ちょっと待っててね」

 まもなくして、一日の始まりを告げる良い香りがあたりに漂い始める。砂糖とミルクはここにあるからと、彼女は普段の客にするような仕草で、受け渡し口のテーブルの一角をトントンと叩いた。

 勘定を済ませ、よい朝を、と互い違いに告げ、ワゴンショップを後にする。利き手には杖、もう片手には熱いぐらいのコーヒーが入った紙コップ。火傷しないように少しずつ啜りながら、朝ぼらけの公園を歩く。本来であれば、静かな朝のなんてことのない情景だったが、カーラは亡きステファニーのパートナーだったという事実が、あそこには揺るぎなく存在していた。〈移動祝祭日〉というヘミングウェイの随筆から名を取った可動式テイクアウト・レストランは、一人分の空白を抱えたまま今も稼働している。私も彼女も、客と店主である以上の余計な会話をとることはほとんどない。何も好き好んで傷口をえぐり合う必要はない。

「グリーンリーフの東側が比較的静かで、穏やかな空気が漂っているのは、街の中心部により近い西側にクリエイティブな才能が集中しているからだ」と評した現代美術の評論家がいる。それはすなわち、東西を分ける人工の小川を境に、身体を白粉で塗りたくって彫像として過ごす奇人や、オリジナルな神のお告げを喚く宗教家、第二のホイットマンを夢見る自作詩売りといった群衆がいて、ありがたいことに彼らにとって東側のゾーンは創造的でない領域であると判断されたらしかった。前市長にはそのありがた迷惑な才人たちを見て見ぬふりをする度量があったようだが、かのハケット氏はそれが気にいらないようだった。彼は公園の維持費を大幅にカットし、一方でその悪名をおおいに轟かせた「副流煙防止法案」の喫煙禁止区域からこの公園をわざと(というのは、反対派の見立てだが)外した事で、少なからぬ愛煙家の招致に成功した。愛煙家公園(スモーカーズ・パーク)という、自然公園を称する土地としては最大級の蔑称が近隣住人の間で定着するまで、さほどの時間は要しなかった。

 私はハケットの消極的反対論者ではあったが、家の近くに公的な喫煙所があるというのはありがたかった。借り住まいの家の家主は、少なくとも副流煙防止法案に関しては彼の熱烈なシンパであり、ここを一番近い喫煙所とするよりほかに手段がなかったのだ。

 あたりで吸い殻を踏む事が多くなってきた頃、ふと何か違和感を感じた。かすかに漂う煙の残り香のなかに、錆のような鈍重な匂いがほんのわずかに混じっている。あたりを見回すと、紅葉の木の根元に寄りかかる人影があった。そばに歩み寄っても、動く気配はない。そのうち、地面に広がる暗い赤色のなかに、何かが落ちていることに気づいた。拾い上げるとそれは一本のシケモクだった。

 シケモクは血で汚れていた。あの錆のような臭いは、煙草の火に血が炙られた残り香だと見当がつく。

 肩を揺すったところで、目を覚ますことはないだろう。おそらくはもう二度と。足元にカップを置いて携帯を取り出すと、警察に連絡し、パドックという名の警部に取り次いでほしいと伝えた。しばらくして、ドスの効いた低い声が聞こえてきた。私は用件と、おおよその現在位置を簡単に彼に伝えた。分かった、動かずにそこで待ってろ。通話はそこで切れた。

 死んだ男の雰囲気に、なんとなく既視感があった。記憶を遡りながらあたりを見回す。少しずつ登ってきた朝日が、何かを照らした。細かな金属片の、鋭い反射光が目を刺す。地面になすりつけたかのような跡が残っていて、その中心になにかが落ちていた。煙草、金属の輝き、愛煙家公園。男の服装からは血のほかに獣臭がする。

 死んでいるのはおそらく、〈クイーン〉ジョージの爺さんだ。既視感の正体に気がついた時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。

 

 

(続きは『蒼鴉城46号』で)