残されたもの

 少年は、手のひらにのせた錠剤をじっと見つめていた。

 それは、不眠症の母親が医師から処方されていた睡眠薬だった。母親は子供が誤飲すると危険だからと薬の入った瓶を戸棚の奥に隠していたが、少年はその場所をちゃんと知っていた。

 午前二時。家族が寝静まるのを待って薬と水を手に入れてきたところだ。ノートを破って何か書き残そうかとも考えたが、芝居くさくなりそうだと思い直してやめた。

 俺、これ全部飲んだらどうなるんだろう。母さんは、朝になっても起きてこない俺を心配して様子を見にくるだろうな。それで母さんは、初めは俺がふざけてると思って笑いを含んだ声で小言を言うんだ。それで、それから……。

 少年は母親の泣き顔を思い浮かべた。

 ……やっぱり、明日にしよう。

 少年は、睡眠薬の入った瓶を元の場所に戻してベッドに入った。ここ数日、同じことを繰り返している。

 少年の目の下には、うっすらと隈ができていた。

 

⒈ 電車

 あ、エアカ君髪切ったんだ。

 電車に乗ってまず、そう思った。地方の小さな駅からの乗客は少なく、通学、通勤の時間帯であるこの時刻の電車の中は、代わり映えしない見知った顔ばかりだ。

 座席もぽつぽつ空いているが、私はいつも通りドアの前のスペースに立っている友人の隣にまっすぐ向かう。

 私を見付けてあいさつ代わりに軽く片手を挙げてみせる麻友は、高校で二年連続同じクラスの親友だ。だからといって何を話す訳でもなく、片道一時間かかる通学時間はそれぞれ本を読んだり勉強をしたり、時にはぼーっと窓の外を見たりと、思い思いに過ごしている。

 エアカ君はいつも、私達の立っているところからちょうど見やすい位置の座席に一人で座って読書をしている。高校生だと思うのだが、制服を着ているところを見たことがないためどこの生徒かは分からない。電車を乗り替える時にいつも違う車両に乗ってしまうため、彼が降りる駅も分からない。

 エアカ、とはもちろん本名ではなく、私と麻友が勝手につけたあだ名だ。「エアカ」は「エアかっこいい」の略で、顔立ちが特別整っている訳ではないのに、なぜか雰囲気がかっこいい人のことを言う。対義語は「リアルにかっこいい」、略して「リアカ」。

 一年前に彼を見付けて「あれこそがエアカの典型例だ」と大いに盛り上がっていた麻友はしかし、もう彼には興味をなくしたようで、髪型の変化にも気付いていないようだ。

 私だけが毎日、電車に乗るとまず彼に目をやる習慣がついてしまっている。

 

 髪を切って少し雰囲気の変わったエアカ君を何の気なしに眺めていると本人と目が合いそうになり、慌てて持っていた推理小説を開いて読み始めた。

 それからは本に集中し、身元不明の変死体が登場したところで電車が次の駅に到着した。この駅では他の線との連絡のため少し長く停車する。

 私は窓の外に広がる田園風景の中に、いつもの背中を探した。

 毎日この時刻に線路沿いの道を歩く初老の男性。こちらもエアカ君同様話をしたこともなければ本名も知らないが、私は勝手に「拝みさん」と呼んでいる。

 拝みさんは今日もひょこひょこと歩いてきて、私の視界から消えないぎりぎりのところで立ち止まって両手を合わせた。彼は毎日、見たところ何もない用水路に向かって黙祷を捧げて帰っていく。

 今日も拝みさんの不思議な儀式は無事に終わり、見ていた私もほっと息をついた。いつの間にか、神聖な儀式でも見るような気分で彼を見守るようになっていた。

 車内に目を戻すと、エアカ君も窓の外を眺めていた。

 まさか彼も、あの人のこと拝みさんって呼んでたりして――

そんなことを考えているとエアカ君が突然視線を戻し、目が合いそうになった私は慌てて再び窓の外を見た。

 

 その瞬間、あぜ道を歩く拝みさんの後ろ姿がぐらり、と傾いた。

 ぐらり、どさ。

 窓を挟んで、彼の倒れる音がはっきりと聞こえた気がした。

 

「麻友、先に学校行ってて。私、遅れる」

 私はスポーツバッグを肩にかけ直して言い、電車を飛び出した。

「え、何」

 戸惑う麻友に、拝みさんが倒れた、と言い捨てて駆け出す。

「尾上さんって誰よ⁉」

 麻友の叫び声と電車の発車音が背後で聞こえたけれど、私は振り返らずに走った。

駅員にAEDを持ってきてくれるよう頼んで、倒れている拝みさんのところまで駆けつけた。

 呼びかけても反応がなく呼吸もしていなかったため、私は心臓マッサージを始めた。心肺蘇生法を学校で習ったばかりだったが、本当に手順が合っているのか少し自信がない。パニックになりながら必死で拝みさんの胸を押していると、叫び声が降ってきた。

「いつまでやってんの、次は人工呼吸!」

 はっとして、自分が三〇回以上心臓マッサージを続けていることに気付く。

 無我夢中で人工呼吸をしていると、先ほどの声が今度は、

「駅員さん何してるんだよ、遅い!」

 と叫び、駅員さんが走ってくる音がした。